2012年9月 7日 (金)

岡庭昇 ~ 『 「週刊新潮」を絶賛する』

以下は、岡庭昇氏が普段は限定6部で発行している「週刊岡庭昇」の8月17日号です。

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「週刊新潮」を絶賛する

「週刊新潮」2012.8.16-23合併号「大荒れ国会の黒幕・小泉純一郎元総理」という記事を絶賛する。当たり前の論旨と言えばそうかも知れない。だが「あの週刊新潮」の記事だと思えばかなり嬉しい。
 そして官僚独裁によって小沢一郎が追放され、民主党と自民党がまったく同じものに仕立てあげられて、民主党に絶望したが、いまさら「二代目の巣窟」自民党にも帰りたくない民衆が、一挙に橋下ヒトラーに雪崩を打つであろう現状を「保守の本家」がどのような危機感で捉えているかが伺われるところもミソである。
 わたしは古い「週刊新潮」ファンである。中学生のころ、創刊から日も経ていない同誌は二大連載の柴田錬三郎『眠狂四郎無頼控』と五味康佑『柳生武芸帳』を看板にした。わたしもまたこれらの連載の読者だった。それに状況への論調も、決して進歩派ではないが、単なる反共的嫌みという後年の体質はなかった。
 つまり戦後の虚構的部分というか、大上段から斬って捨てるスターリンの物まねがジャーナリストと論壇を支配していたため、そうは言ってもね、というツイッター的実感に感覚的、身体的な存在価値があったのだと思う。
 しかし傲慢で権威主義の、戦後進歩派の天下は長続きしなかった。60年安保蜂起敗北後の「七社共同宣言」で、転びの皮切りになった大新聞ほど露骨ではないにせよ、冷戦構造の解消に向けて時代は進み、共と反共の対立図式はそれぞれにとって成立しなくなった。
 権威風「共」の消滅は同時に、それに抗する蟻の「実感」を基礎とした「反共」の消滅でもあった。その時点で『週刊新潮』流の文法は、状況に即した転換を迫られたはずである。だがいまや主流派であることを認識出来ず、もはや不在とも言える「左翼風空威張り」への「反抗」は、空振りを結果するしかなかった。方途を見失った「実感のツイッター」は、しばしば本来と反転して強者の弱者いじめに陥ることもあり、わたしのような古いファンを嘆かせることになった。少なくも効果を失ったただの嫌みは、空振りが多かった。
 狙いに何やら決定的なリアリティの欠如まで疑わせる、同誌の創価学会叩きをめぐって「週刊新潮」は「である」と「でない」を逆に読めば面白い、とわたしが発言したこともあった。だから事実を事実として捉えた、今回の『週刊新潮』の記事が嬉しかったわけである。
 わたし個人の大袈裟な言い方かも知れず、記事は特集の一つにすぎないが、左翼メディアもきちんと「小泉の時代」の総括が怪しい(だいたいリトルマガジンを除いていまそんなものがあるのだろうか)のだから、それが客観的にも優れた記事であることも事実である。
 記事は引退したはずの小泉純一郎が、消費税改悪のための「三党合議」なる官僚独裁の証拠みたいなマンガを潰そうと画策したというものである。むろん民主主義に反すると小泉が言うわけもなく、あくまで党利党略からだが。
 確かにこの画策や小泉復活論をおもしろおかしく記事にしてはいるが、そんなものは引退老人の差出口にすぎないという姿勢が、はっきりしていると思った。いや重要なのは、エコノミスト紺谷典子氏と経済アナリスト森永卓郎氏の口を借りて、小泉政治への基本的な否定を打ち出していることである。
《「小泉改革」とは名ばかりの改革で、すべて改悪でした》と紺谷氏は言う。《もし小
泉流が復活したら、日本経済は息の根を止められてしまう》と。また森永氏は《何よりの
問題はあの金融資本主義た広めたことです》と言う。さらに《(数々のむちゃな)処理に
4000億以上の国民の税金が使われたのです。なぜこれが犯罪として追及されないのか、不思議でしょうがない》と結論するのである。これらを受けて、記事は次のように締め括られる。

《むろん、永田町の外でだれがどう吼えようが自由だ。閉鎖した混迷の時代に、大衆が独裁者に期待を抱くのも世の常である。しかしそれは所詮、幻影にすぎぬことを肝に銘じておくべきだろう。独裁が庶民を幸せにした例はない》(同)。

 かつて「週刊新潮」はスターリン的独裁を撃った。いまそれは、ヒトラー的独裁を撃つことで、首尾一貫するだろう。
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2012年8月19日 (日)

日本人の喫緊の課題は、メディアリテラシーを上げること

いま、大変な話題になっている『戦後史の正体』という本は、ご存じの方も多いと思います。
著者は孫崎亨(まごさき・うける)氏。元は外務省の官僚で駐ウズベキスタン大使、駐イラン大使の他、国際情報局長も歴任されています。外務省退官後は防衛大学校教授も務められた、要するにバリバリの官僚だったわけですが、この方が「アメリカからの圧力」という視点から戦後史を見直すという、これまでになかったまったく新しい史観を提示しています。その事実の一つひとつが目からウロコといった内容です。
孫崎氏はこう書きます。

 

戦後の日本外交を動かしてきた最大の原動力は、米国から加えられる圧力と、それに対する「自主」路線と「追随」路線のせめぎ合い、相克だったということです。

「対米追随」路線と「自主」路線、もっと強い言葉でいえば「対米従属」路線と「自主」路線、このふたつのあいだでどのような選択をするかが、つまりは戦後の日米外交だったと言えます。

孫崎氏は、「米国からの圧力や裏工作は、現実に存在します」と断言し、歴代政権を対米というスタンスから評価すると、驚くことに「自主」路線をとろうとした政権は、ことごとく潰されているのです(首相ではありませんが、小沢一郎もその系譜に連なります)。
では、いかなる手段を講じて、アメリカは日本の「自主」路線政権を潰すのでしょうか?

 ここで指摘しておきたいのは、占領期以降、日本社会のなかに「自主派」の首相をひきずりおろし、「対米追随派」にすげかえるためのシステムが埋め込まれているということです。  一つは検察です。なかでも特捜部はしばしば政治家を起訴してきました。この特捜部の前身はGHQの指揮下にあった「隠匿退蔵物資事件捜査部」です。終戦直後、日本人が隠した「お宝」を探しだしGHQに差しだすのがその役目でした。したがって検察特捜部は、創設当初からどの組織よりも米国と密接な関係を維持してきました。
 次のに報道です。米国は政治を運営するなかでマスコミの役割を強く認識しています。占領期から今日まで、米国は日本の大手マスコミのなかに、「米国と特別な関係をもつ人びと」を育成してきました。占領時代はしかたがなかったかもしれません。しかし今日もまだ続いているのは異常です。

 そして孫崎氏はこう書きます。

 この六つのパターン(※筆者注 この直前に記された自主派の政治家をひきずりおろす六つのパターン)のいずれにおいても、大手マスコミが連動して、それぞれの首相に反対する強力なキャンペーンを行なっています。今回、戦後七〇年の歴史をふり返ってみて、改めてマスコミが日本の政変に深く関与している事実を知りました。
 このように米国は、好ましくないと思う日本の首相を、いくつかのシステムを駆使して排除することができます。難しいことではありません。たとえば米国の大統領が日本の首相となかなか会ってくれず、そのことを大手メディアが問題にすれば、それだけで政権はもちません。それが日本の現実なのです。

私は『戦後史の正体』を読んだ直後に、読売新聞政治部著による『民主党 迷走と裏切りの300日』という本を読みました。この本は2009年の政権交代後の鳩山政権が、普天間移設問題で「迷走」し、小沢一郎を「道連れ」に退陣するまでの300日の記録ですが、その中身はひと言で言えば、鳩山由紀夫と小沢に対するあらん限りの罵倒です。
米国の意向、日米関係の安定(要するにアメリカのご機嫌を損ねないこと)を金科玉条として鳩山の「迷走」(実は「クソ粘り」)を糾弾する一方、東京地検特捜部の捜査によって秘書を逮捕された小沢に対しては「政治とカネという問題を抱えた選挙至上主義の独裁者」というレッテルを貼りつけ、これまた糾弾します(ちなみに小沢一郎をめぐるこの事件は、もはや東京地検の捏造であることはハッキリしています)。
孫崎氏が書かれた通りの動きを読売新聞政治部はしています(ちなみに読売新聞中興の祖である正力松太郎はCIAの協力者だったことは、アメリカの公文書にはっきりと書かれています)。

私はこの二冊を読んで、丸山邦男著『遊撃的マスコミ論 オピニオン・ジャーナリズムの構造』(弊社刊)の「ジャーナリズムと戦争責任」の以下のフレーズを思い出しました。

「今日において新聞を引っくるめてマス・コミの勢力は、ある意味で政治以上に強力であるということができる。マス・コミが協力すれば、一政権を倒すぐらいは易々たるものであるが、政治の力では、右にせよ左にせよ、ファシズム的専制政治が出現しない限り、一新聞を倒すこともできないであろう」(阿部真之助「民衆が自由を支配する」)
 こういう事実を正しく指摘する人は案外すくない。マス・コミが独自の権力機構を形成しつつ、社会の既成支配権力──政府・官僚・財閥──に拮抗し、一つの支配権力を優に凌駕する実力を貯えてきているといういい方は、けっして誇大な表現ではない。

私は最近、改めて、かつ強く、現在の日本の最大の問題はマスメディアであると思います。
この国には福島第一原発をはじめとして、さまざまに困難な問題が山積しているわけですが、その一つ一つを正しい方向で解決していくためには、まずもって国民一人一人が自身のメディア・リテラシーを上げること、言い換えればマスコミ報道を鵜呑みせず、自らの頭でニュースを読み解く力をつけることがもっとも重要ではないでしょうか?

その参考図書として、ご紹介した『遊撃的マスコミ論 オピニオン・ジャーナリズムの構造』、あるいは岡庭昇氏のシリーズを是非、ご一読いただければと思う次第です。

孫崎亨氏のtwitterは→こちら
※私の知り合いは、何かニュースがあると、まず「孫崎さんはどう考えているか」をツイッターで見るといいます。それを聞いてから、私も同じようにしています。ちなみに現時点での孫崎さんの最新のつぶやきは尖閣諸島と原発です。

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2012年7月21日 (土)

お知らせ その1 ~ 新刊のご案内

長らく当ページを更新できませんでしたが、本日より再開いたします。
そこでお知らせを2ついたします。

まずは新刊のご案内です。
8月上旬に以下のタイトルをリリースいたします。

タイトル: 『遊撃的マスコミ論 ~ オピニオン・ジャーナリズムの構造』
著者: 丸山邦男

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本書は1976年、創樹社より刊行されましたが、電子化にあたり、章の構成を見直し、また新たに著者のデビュー論文で単行本未収録の「ジャーナリストと戦争責任」(1957年2月『中央公論』)を収録しています。

著者の丸山邦男氏は政治学者・丸山真男の実弟です。

以下は本書の構成です。

第一章 ジャーナリストと戦争責任

第二章 権威ある虚像と実像──遊撃的人物論
       石原慎太郎

第三章 憂さの構造──遊撃的マスコミ論
       誤報・虚報・無報
       オピニオンがつくられるジャーナリズムの論理と構造
       醜聞はマスコミのタブーか
       一人称不在の〈狂気社会〉
       内ゲバとリンチの論理
       「党派的革命運動」の頽廃について
       憂さの構造
       “新潮ニヒリズム”の正体

第四章 現代的天皇制──遊撃的天皇論
       三島精神・企業天皇制
       象徴神話の虚構
       天皇観の変遷と庶民の三十年
       「昭和」の元号のすすめ
       平均的庶民から裕仁陛下への直訴状

 あとがき

以上となります。
前述のとおり、1974年刊行と古い本ですが、一読すると、現在のマス・メディアが抱える問題点が、ほとんどすべてと言っていいほど出尽くしていることに読者は驚かれることと思います。
どうぞご期待下さい。

なお、各電子書店での発売予定は決定次第、御報告いたします。

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2012年1月28日 (土)

「テレビ帝国の教科書」 ボイジャーストアより発売!

先日来、ご案内しておりました、

書名: 『テレビ帝国の教科書 メディア・ファシズムの罠を見抜け!』
著者: 岡庭昇(元TBSドキュメント・ディレクター)
価格: 500円(税込)

がボイジャーストアより発売となりました。

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ボイジャーストア『テレビ帝国の教科書』

以下は、「はじめに――メディア・ファシズムとの共犯を断ち切れ」からの抜粋です。

 イヴァン・イリイチは、『学校化社会からの脱却』を著して、現代市民社会における学校化現象を批判し、そこからの脱却を提案した。それにならっていえば、わたしは早急なる“テレビ化社会からの脱却”を提案したい。“テレビを消せ”などという、つまらないお説教をしたいのではない。テレビを消しても、どうにもならない。逃避を試みても、その社会の内側に囚えられているという現実からは逃げられない。学校化社会からの脱却が、何よりも学校のホンシツと、学校化現象に蝕まれた市民社会への批判的な考察であったように、われわれはこの脱出のためにこそテレビに積極的に関わってみなければなるまい。
 この考察は四つの軸をもっている。

 ①は、テレビが(メディア・ファシズムが)しばしば武器として用いるスキャンダルは、どういうカラクリに充ちているのか、という問いである。この考察こそ本書の柱であり、ロス疑惑やかい人21面相を例にとりながら、第Ⅰ章にまとめた。

 簡単にいえば、テレビが送り出すさまざまな現実像のなかに、その一種類としてスキャンダルがあるのではない。すべての映像がスキャンダルである。あるいはすべての映像をスキャンダルとして処理するところにのみ、テレビがテレビとして成立している根本がある。そして、このようなものとしてのスキャンダルは、かならず権力悪としてのスキャンダルを背後にかくす役割をはたすのである。ちょうどテレビの送り出す明るい日常現実像が、現実の暗部を差別的に切り捨ててしまう役割であるのと、それはセットになっている。もっともらしい現実(NHKニュースのなかの市民社会)は、じつはさりげないイベントなのだが、それをホンモノに見せるために、もうひとつのどぎついイベントであるスキャンダルが演出されるのである。そこにマジメ=ホンモノ、不マジメ=ウソという迷信的二元論が交錯して、イベントとしてのニュースを現実像に粉飾することになる。

 ②は、テレビとはそもそもいかなる存在なのか、というホンシツ論である。このホンシツ的なメディア考は、なるべくホンシツ論議らしからぬ日常的なエピソードとして、第Ⅱ章にまとめた。
 ホンシツなどとは無縁なところに存在していることによって、ホンシツ的な批判から免れている(テレビへの悪口にロクな批評があったためしがない)のが、テレビのホンシツだからである。

 かくて、メディア・ファシズムの定義は、テレビをはじめとするマスコミが、用意した“像”をもって現実をフィクションする機能である、ということになろう。これが③である。この考え方については、第Ⅲ章で述べた。
 そしてスキャンダルもまた、ニセのスキャンダルによってかくされている。われわれがふつうスキャンダルと思っているものは、スキャンダルをかくすためのそのニセモノなのである。つまり、

 ④メディア社会は、すべてが逆説のカラクリに充ちていて、素直なヒトほどだまされてしまう。このカラクリの見抜き方を、第Ⅳ章でしめくくった。

 一般的に現代は情報化社会といわれる。むろん情報化社会とは、情報が不自由な社会のことである。ウソの情報ばかりが意図的に氾濫させられ、真の情報がかくされる時代の呼び名なのである。ここをまちがえてはいけない。だが、いかにわたしががんばったところで、たれ流されている大量のウソ情報の代わりに、ひとつひとつ真の情報を提示するなどということはできない。情報はいつも権力に所属し、その手によってかくされている。ただ、あらわれた限りでのフィクションとしての情報を読み替えることはできる。

 娯楽番組をやるときは笑顔で、ドタバタヴァラエティをやるときは純粋に不マジメな態度で、そしてニュースを報道するときは表情をひきしめて……というのがテレビの、よく考えてみればじつに奇妙な、グロテスクなしきたりである。そして、ホンシツをいえば、マジメな顔のニュースほど、じつはつくりものであり、しばしばウソッパチでもあるのだ。人々は多く、メディアのトリックであるところの“ヒトの態度がコトのなかみを決定する”というしきたりに慣らされてしまっている。そのためおふざけ番組は俗悪で、マジメな顔のニュースは真実だと条件反射する。しばしば条件反射が充たされないときは、やみくもにテレビに向かって反発する。なぜしきたりどおり、永野の死体が病院に運ばれたあとの“現場”をニュースしないのか、という程度の意味しかもたない抗議電話はこのわかりやすい例である。

 たとえば、いっけんぶっきらぼうな態度だが、とりあげていることがらへの真摯さがその奥にうかがわれる、というのはだめで、みるからに虚偽のとりつくろいで、対象に関心をもっていないマジメ風ないんぎん無礼は、大いに歓迎する。その結果、たとえば多くのNHKアナウンサーのような不気味な存在が出来上がってしまうのである。

 この逆立ちは、視聴者自身にはね返っている。“ヒトの態度がコトのなかみを決定する”という錯覚によって、大マジメな顔の情報は(記者クラブ発表のニュースは)それだけでホンモノだとうけとられる。やすやすとフィクションが流布される。大マジメな顔のアナウンサーと大マジメな顔の視聴者がメディアと共犯しつつ、物語を現実にすりかえる不マジメな作業にうちこんでいるということだ。

 さきほどもいったが、まさにあなた自身の問題として、いま、ほんとうに深刻にこのメディア・ファシズムの状況をふり返ってもらいたい。オレは何もしていない、ただ新聞やテレビから情報を与えられているだけで、そこにウソや物語がふくまれていればオレも被害者だ、というかもしれない。それもたしかに一面の真理だ。だが、一方的に被害者ではすまないところに事態がきていることもたしかなのである。

 この、くるところまできてしまったメディア・ファシズムの頽廃のなかで、なお“ただ与えられている”としたら、それはとりもなおさず共犯以外のなにものでもないのである。メディアほど受け手(消費者)の顔色をうかがっているものはない。わたしは従来つねにテレビ、新聞、週刊誌のつくり手を批判してきたし、これからもやってゆくつもりだが、近年“王様”としての視聴者“市民”の犯罪性を痛感することが多い。

 読者諸君、いますぐあなたの位置を徹底して検証せよ。そうでないと、とりかえしのつかない事態をあなた自身の手でつくり上げてしまうことになるだろう。

個人的な感想を言わせていただければ、上記の抜粋の最後の部分「とりかえしのつかない事態」は福島第一原発の破局事故で起きてしまったと思います。
しかし、それでもなお、政府やメディアの流す「福島は収束しつつある」という情報(あるいは「空気」)をアプリオリに信じてい国民が圧倒的に多数であることも事実です。
しかし、だとすると、岡庭論に従えば、さらにさらにとてつもない事態が起きてしまうかもしれません。
それを避けるためには、今こそ情報を正しく読む力をつけることが必要です。
本書は必ずそのお役に立てるものと確信しています。

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2012年1月26日 (木)

『テレビ帝国の教科書 メディア・ファシズムの罠を見抜け!』明日発売

長らく更新が滞ってしまいました(これからはそのようなことがないようにしていくつもりです)。

さて、本年の弊社第一作目を明日夕方より、ボイジャーストアにて先行発売いたします。

タイトル:『テレビ帝国の教科書 メディア・ファシズムの罠を見抜け!』
著者: 岡庭昇

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岡庭昇氏の著作としては、弊社では2冊目の電子化となります。
まずは目次のご紹介。

二〇一二年──電子書籍版への序文

はじめに──メディア・ファシズムとの共犯を断ち切れ

Ⅰ メディアとスキャンダルが相姦する

  1 ロス疑惑とテレビの新時代

    “疑惑”という名の公開処刑イベント
  2 かい人21面相と事件の“顔”
     仮説・グリコ‥森永不連続説
  3 倉田まり子と国家のスキャンダル
    “コト”が“ヒト”にすりかわる
  4 山口組と劇場犯罪
     あらゆるスキャンダルはイベントとなる

Ⅱ テレビは空気のような罠である
  1 体験的“抗議電話”
     それはリアクションとしてのアクションである
  2 安心は既視感のなかに
     メディアに出るのはエライ人、か?
  3 テレビは“市民”のパスポート
     永遠に停滞するわれらの至福の共同体

Ⅲ“像”という名の妖怪が歩き出す
  1 われらの“現実”は仮装する
     メディアの権力を解剖する
  2 一枚の写真とイメージの罠
     感性の支配が確立するとき
  3 スキャンダルのケインズ理論
     広告代理店向け“疑惑”のマニュアル
  4“像”は君臨する
     露出する人々は権力を得る

Ⅳ 逆説のカラクリが情報を戦略する
  1 情報帝国主義の完成
     統制がリーグとなり、リーグが統制となる
  2 真のスキャンダルは逃亡する
     タレント・スターという機能
  3 メディア・ファシズムヘの逆転技
     官能を研ぎすませよ!

あとがき

1985年に刊行された本なので、出てくる事件は古いですが、しかし、書かれている内容はまったく古くありません。
それどころか、現在起きている福島第一原発の破局事故をめぐるさまざまな情報、あるいは政治、とくに小沢一郎の「陸山会事件」についての情報など、マスメディアがながすあらゆるニュースについて、これまでとはまったく異なる視点を読者のみなさんは持つことができると思います。

私はかつて、田中角栄という政治家は大変に悪い、金権政治家だと思っていました。
だから、東京地検特捜部によって田中角栄が逮捕され、総理の犯罪として裁かれたことに喝采を送ったものでした。
リクルート事件でも、はやり検察側の視点にたって特捜部やメディアの報道を見ていました。
鈴木宗男の「ムネオハウス」にしろしかりです。

しかし、そのすべてを一度、全面的に見直す必要があると今は思っています。
岡庭氏はこんなことを書いています。

《ヨーロッパをひとつの妖怪が徘徊する、共産主義という名の妖怪が》と若きマルクスは誇らかに書きつけた。いま、ずっとネガティブな意味であるが、市民社会を一つの妖怪が徘徊する、既視感(デジヤ・ヴユ)の他者であるところの“像”という名の妖怪が、とわたしは書きとめておかなければならない。

 高度に制度化された制度は、もはや制度であることを感じさせない。権力の最高度の達成とは、何よりも権力としての自己消滅である。支配されているという実感を、支配されている者の感性から拭い去ることこそ、支配の完成にほかならない。その意味で、鎖国ニッポンの完成、そこでの身体の囲いこみの完了は、警察や軍隊といった暴力による支配の形を遠く離れる。いまや支配されたがっている人間ほど、自分を自由だと実感しているはずだ。市民社会はすでに法や規範や戒律や禁忌や私刑で動かされているのではない。“空気”と“気分”こそが、市民社会の鉄の掟である。それは法や規範や戒律や禁忌や私刑以上に絶対管理制であるところの、いわばソフト・ファシズムである。このソフト・ファシズムはメディアによって司られている。とりわけて空気のファシズムたるテレビによって。

 このメディア・ファシズム状況の中核にあるものが“像”である。メディア批判は、報道の右傾化を憂うといったおなじみのスタイルにおいてではなく、メディアそのもののホンシツをつかない限り成り立たない。そのとき、メディアの支配力の源泉である“像”のトリックこそが、批判的な課題として考察されるべきである。

“像”とは、読んで字のごとく“像”である。たとえば山口百恵、田中角栄、三浦和義という名前から、われわれがおおむね共通に浮かべるイメージが“像”である。モモエにも、角栄氏にも、三浦サンにもさまざまな表情やシチュエーションがあるのだが、われわれはただひとつの“像”を条件反射するのだ。それは記号化された顔である。同時に意味が記号化している。彼らは既視感(デジヤ・ヴユ)のかたまりであり、それゆえ他者総体を代行している。つまり彼らが記号化されることは、現実そのものを記号化するということなのだ。そのことによって、われわれは空気の制度をみずからの手で完成しているといわねばならない。

 現実が“像”におきかえられる。同時に“像”もそのままたれ流されるだけでは“条件反射”を保証されないから、さまざまに“像”のころがし方が発達する。たとえば角栄さんに顕著だったような、“像ころがし”だ。三浦印や角栄印の場合のように“像ころがし”はますますテレビの支配機能を尖鋭にした。それに“像”をひきしめるスパイスの投入がある。スキャンダルの使用である。そんな風にして、現実と“像”をすりかえるメディア力学は、ますます盛大に栄えている。

 しかし、現実を記号に変え、他人の生き死にをイベントにすりかえるメディアと共犯に立つことで、市民たちはいずれ手ひどいしっぺ返しをうけるだろう。GNPぼけして忘れているが、半世紀前の日本人たちは、いよいよ自分が死地にひっぱられるまで、祖国ニッポンが自分たちの檻であるなどとは夢思わず、さまざまな国家製の物語や記号を娯楽していたのである。

本書を読むことで、日本を支配する「メディア・ファシズムの罠」を是非とも見抜く力をつけていただきたいと思います。
定価は500円です。

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2011年12月 2日 (金)

志木電子書籍からのお知らせ ~ 新刊情報その1 「『風流夢譚』事件以後」

弊社の12月の新刊のご案内です。

すでにご案内をしておりました中村智子著「『風流夢譚』事件以後 編集者の自分史」を来週12月5日(火)18:00よりボイジャーストアにて、また16日(金)より紀伊国屋BookWeb、Reader Store他にて販売開始いたします。
本書の著者、中村智子氏は元中央公論社の編集者で、「風流夢譚」事件、「思想の科学 天皇制特集号断裁」事件、そして中央公論社で勃発した「言論の自由問題」の当事者でありました。
底本は1976年発売ですが、当時はまだ中央公論社の社員であり、前述の事件を会社の内側から証言した貴重なドキュメントです。

鶴見俊輔氏は当時、本書に下記のような文章を寄せています。

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誰しも自分が当事者として
うずの中にまきこまれた事件について
語ることはむずかしい。
十五年前の「風流夢譚事件」と
「思想の科学天皇制特集号断裁」とは、
中央公論社という出版社の経営者、
編集者、社員、執筆者、読者にとって、
それぞれの生活と
思想にかかわる出来事だった。
著者は、当時の編集者として、
身辺のディテイルにとらわれることなく、
言論の自由を守るとは
実際的にどういうことかをくりかえし
新しく自他に問いかけ、
あくまでもこの問題を念頭において、
太い線でこの事件の骨格をとらえた。
編集という仕事への打ちこみの深さが、
このことを可能にした。
当事者の書く記録は、
ひずみをもちやすいけれども、
当事者が手がかりをあたえることなしに
一つの出来ごとについて
納得のゆく記録が編まれることはない。
**********

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間もなく発売です。
ご期待ください。

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