2012年9月 7日 (金)

岡庭昇 ~ 『 「週刊新潮」を絶賛する』

以下は、岡庭昇氏が普段は限定6部で発行している「週刊岡庭昇」の8月17日号です。

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「週刊新潮」を絶賛する

「週刊新潮」2012.8.16-23合併号「大荒れ国会の黒幕・小泉純一郎元総理」という記事を絶賛する。当たり前の論旨と言えばそうかも知れない。だが「あの週刊新潮」の記事だと思えばかなり嬉しい。
 そして官僚独裁によって小沢一郎が追放され、民主党と自民党がまったく同じものに仕立てあげられて、民主党に絶望したが、いまさら「二代目の巣窟」自民党にも帰りたくない民衆が、一挙に橋下ヒトラーに雪崩を打つであろう現状を「保守の本家」がどのような危機感で捉えているかが伺われるところもミソである。
 わたしは古い「週刊新潮」ファンである。中学生のころ、創刊から日も経ていない同誌は二大連載の柴田錬三郎『眠狂四郎無頼控』と五味康佑『柳生武芸帳』を看板にした。わたしもまたこれらの連載の読者だった。それに状況への論調も、決して進歩派ではないが、単なる反共的嫌みという後年の体質はなかった。
 つまり戦後の虚構的部分というか、大上段から斬って捨てるスターリンの物まねがジャーナリストと論壇を支配していたため、そうは言ってもね、というツイッター的実感に感覚的、身体的な存在価値があったのだと思う。
 しかし傲慢で権威主義の、戦後進歩派の天下は長続きしなかった。60年安保蜂起敗北後の「七社共同宣言」で、転びの皮切りになった大新聞ほど露骨ではないにせよ、冷戦構造の解消に向けて時代は進み、共と反共の対立図式はそれぞれにとって成立しなくなった。
 権威風「共」の消滅は同時に、それに抗する蟻の「実感」を基礎とした「反共」の消滅でもあった。その時点で『週刊新潮』流の文法は、状況に即した転換を迫られたはずである。だがいまや主流派であることを認識出来ず、もはや不在とも言える「左翼風空威張り」への「反抗」は、空振りを結果するしかなかった。方途を見失った「実感のツイッター」は、しばしば本来と反転して強者の弱者いじめに陥ることもあり、わたしのような古いファンを嘆かせることになった。少なくも効果を失ったただの嫌みは、空振りが多かった。
 狙いに何やら決定的なリアリティの欠如まで疑わせる、同誌の創価学会叩きをめぐって「週刊新潮」は「である」と「でない」を逆に読めば面白い、とわたしが発言したこともあった。だから事実を事実として捉えた、今回の『週刊新潮』の記事が嬉しかったわけである。
 わたし個人の大袈裟な言い方かも知れず、記事は特集の一つにすぎないが、左翼メディアもきちんと「小泉の時代」の総括が怪しい(だいたいリトルマガジンを除いていまそんなものがあるのだろうか)のだから、それが客観的にも優れた記事であることも事実である。
 記事は引退したはずの小泉純一郎が、消費税改悪のための「三党合議」なる官僚独裁の証拠みたいなマンガを潰そうと画策したというものである。むろん民主主義に反すると小泉が言うわけもなく、あくまで党利党略からだが。
 確かにこの画策や小泉復活論をおもしろおかしく記事にしてはいるが、そんなものは引退老人の差出口にすぎないという姿勢が、はっきりしていると思った。いや重要なのは、エコノミスト紺谷典子氏と経済アナリスト森永卓郎氏の口を借りて、小泉政治への基本的な否定を打ち出していることである。
《「小泉改革」とは名ばかりの改革で、すべて改悪でした》と紺谷氏は言う。《もし小
泉流が復活したら、日本経済は息の根を止められてしまう》と。また森永氏は《何よりの
問題はあの金融資本主義た広めたことです》と言う。さらに《(数々のむちゃな)処理に
4000億以上の国民の税金が使われたのです。なぜこれが犯罪として追及されないのか、不思議でしょうがない》と結論するのである。これらを受けて、記事は次のように締め括られる。

《むろん、永田町の外でだれがどう吼えようが自由だ。閉鎖した混迷の時代に、大衆が独裁者に期待を抱くのも世の常である。しかしそれは所詮、幻影にすぎぬことを肝に銘じておくべきだろう。独裁が庶民を幸せにした例はない》(同)。

 かつて「週刊新潮」はスターリン的独裁を撃った。いまそれは、ヒトラー的独裁を撃つことで、首尾一貫するだろう。
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2012年1月28日 (土)

「テレビ帝国の教科書」 ボイジャーストアより発売!

先日来、ご案内しておりました、

書名: 『テレビ帝国の教科書 メディア・ファシズムの罠を見抜け!』
著者: 岡庭昇(元TBSドキュメント・ディレクター)
価格: 500円(税込)

がボイジャーストアより発売となりました。

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ボイジャーストア『テレビ帝国の教科書』

以下は、「はじめに――メディア・ファシズムとの共犯を断ち切れ」からの抜粋です。

 イヴァン・イリイチは、『学校化社会からの脱却』を著して、現代市民社会における学校化現象を批判し、そこからの脱却を提案した。それにならっていえば、わたしは早急なる“テレビ化社会からの脱却”を提案したい。“テレビを消せ”などという、つまらないお説教をしたいのではない。テレビを消しても、どうにもならない。逃避を試みても、その社会の内側に囚えられているという現実からは逃げられない。学校化社会からの脱却が、何よりも学校のホンシツと、学校化現象に蝕まれた市民社会への批判的な考察であったように、われわれはこの脱出のためにこそテレビに積極的に関わってみなければなるまい。
 この考察は四つの軸をもっている。

 ①は、テレビが(メディア・ファシズムが)しばしば武器として用いるスキャンダルは、どういうカラクリに充ちているのか、という問いである。この考察こそ本書の柱であり、ロス疑惑やかい人21面相を例にとりながら、第Ⅰ章にまとめた。

 簡単にいえば、テレビが送り出すさまざまな現実像のなかに、その一種類としてスキャンダルがあるのではない。すべての映像がスキャンダルである。あるいはすべての映像をスキャンダルとして処理するところにのみ、テレビがテレビとして成立している根本がある。そして、このようなものとしてのスキャンダルは、かならず権力悪としてのスキャンダルを背後にかくす役割をはたすのである。ちょうどテレビの送り出す明るい日常現実像が、現実の暗部を差別的に切り捨ててしまう役割であるのと、それはセットになっている。もっともらしい現実(NHKニュースのなかの市民社会)は、じつはさりげないイベントなのだが、それをホンモノに見せるために、もうひとつのどぎついイベントであるスキャンダルが演出されるのである。そこにマジメ=ホンモノ、不マジメ=ウソという迷信的二元論が交錯して、イベントとしてのニュースを現実像に粉飾することになる。

 ②は、テレビとはそもそもいかなる存在なのか、というホンシツ論である。このホンシツ的なメディア考は、なるべくホンシツ論議らしからぬ日常的なエピソードとして、第Ⅱ章にまとめた。
 ホンシツなどとは無縁なところに存在していることによって、ホンシツ的な批判から免れている(テレビへの悪口にロクな批評があったためしがない)のが、テレビのホンシツだからである。

 かくて、メディア・ファシズムの定義は、テレビをはじめとするマスコミが、用意した“像”をもって現実をフィクションする機能である、ということになろう。これが③である。この考え方については、第Ⅲ章で述べた。
 そしてスキャンダルもまた、ニセのスキャンダルによってかくされている。われわれがふつうスキャンダルと思っているものは、スキャンダルをかくすためのそのニセモノなのである。つまり、

 ④メディア社会は、すべてが逆説のカラクリに充ちていて、素直なヒトほどだまされてしまう。このカラクリの見抜き方を、第Ⅳ章でしめくくった。

 一般的に現代は情報化社会といわれる。むろん情報化社会とは、情報が不自由な社会のことである。ウソの情報ばかりが意図的に氾濫させられ、真の情報がかくされる時代の呼び名なのである。ここをまちがえてはいけない。だが、いかにわたしががんばったところで、たれ流されている大量のウソ情報の代わりに、ひとつひとつ真の情報を提示するなどということはできない。情報はいつも権力に所属し、その手によってかくされている。ただ、あらわれた限りでのフィクションとしての情報を読み替えることはできる。

 娯楽番組をやるときは笑顔で、ドタバタヴァラエティをやるときは純粋に不マジメな態度で、そしてニュースを報道するときは表情をひきしめて……というのがテレビの、よく考えてみればじつに奇妙な、グロテスクなしきたりである。そして、ホンシツをいえば、マジメな顔のニュースほど、じつはつくりものであり、しばしばウソッパチでもあるのだ。人々は多く、メディアのトリックであるところの“ヒトの態度がコトのなかみを決定する”というしきたりに慣らされてしまっている。そのためおふざけ番組は俗悪で、マジメな顔のニュースは真実だと条件反射する。しばしば条件反射が充たされないときは、やみくもにテレビに向かって反発する。なぜしきたりどおり、永野の死体が病院に運ばれたあとの“現場”をニュースしないのか、という程度の意味しかもたない抗議電話はこのわかりやすい例である。

 たとえば、いっけんぶっきらぼうな態度だが、とりあげていることがらへの真摯さがその奥にうかがわれる、というのはだめで、みるからに虚偽のとりつくろいで、対象に関心をもっていないマジメ風ないんぎん無礼は、大いに歓迎する。その結果、たとえば多くのNHKアナウンサーのような不気味な存在が出来上がってしまうのである。

 この逆立ちは、視聴者自身にはね返っている。“ヒトの態度がコトのなかみを決定する”という錯覚によって、大マジメな顔の情報は(記者クラブ発表のニュースは)それだけでホンモノだとうけとられる。やすやすとフィクションが流布される。大マジメな顔のアナウンサーと大マジメな顔の視聴者がメディアと共犯しつつ、物語を現実にすりかえる不マジメな作業にうちこんでいるということだ。

 さきほどもいったが、まさにあなた自身の問題として、いま、ほんとうに深刻にこのメディア・ファシズムの状況をふり返ってもらいたい。オレは何もしていない、ただ新聞やテレビから情報を与えられているだけで、そこにウソや物語がふくまれていればオレも被害者だ、というかもしれない。それもたしかに一面の真理だ。だが、一方的に被害者ではすまないところに事態がきていることもたしかなのである。

 この、くるところまできてしまったメディア・ファシズムの頽廃のなかで、なお“ただ与えられている”としたら、それはとりもなおさず共犯以外のなにものでもないのである。メディアほど受け手(消費者)の顔色をうかがっているものはない。わたしは従来つねにテレビ、新聞、週刊誌のつくり手を批判してきたし、これからもやってゆくつもりだが、近年“王様”としての視聴者“市民”の犯罪性を痛感することが多い。

 読者諸君、いますぐあなたの位置を徹底して検証せよ。そうでないと、とりかえしのつかない事態をあなた自身の手でつくり上げてしまうことになるだろう。

個人的な感想を言わせていただければ、上記の抜粋の最後の部分「とりかえしのつかない事態」は福島第一原発の破局事故で起きてしまったと思います。
しかし、それでもなお、政府やメディアの流す「福島は収束しつつある」という情報(あるいは「空気」)をアプリオリに信じてい国民が圧倒的に多数であることも事実です。
しかし、だとすると、岡庭論に従えば、さらにさらにとてつもない事態が起きてしまうかもしれません。
それを避けるためには、今こそ情報を正しく読む力をつけることが必要です。
本書は必ずそのお役に立てるものと確信しています。

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2012年1月26日 (木)

『テレビ帝国の教科書 メディア・ファシズムの罠を見抜け!』明日発売

長らく更新が滞ってしまいました(これからはそのようなことがないようにしていくつもりです)。

さて、本年の弊社第一作目を明日夕方より、ボイジャーストアにて先行発売いたします。

タイトル:『テレビ帝国の教科書 メディア・ファシズムの罠を見抜け!』
著者: 岡庭昇

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岡庭昇氏の著作としては、弊社では2冊目の電子化となります。
まずは目次のご紹介。

二〇一二年──電子書籍版への序文

はじめに──メディア・ファシズムとの共犯を断ち切れ

Ⅰ メディアとスキャンダルが相姦する

  1 ロス疑惑とテレビの新時代

    “疑惑”という名の公開処刑イベント
  2 かい人21面相と事件の“顔”
     仮説・グリコ‥森永不連続説
  3 倉田まり子と国家のスキャンダル
    “コト”が“ヒト”にすりかわる
  4 山口組と劇場犯罪
     あらゆるスキャンダルはイベントとなる

Ⅱ テレビは空気のような罠である
  1 体験的“抗議電話”
     それはリアクションとしてのアクションである
  2 安心は既視感のなかに
     メディアに出るのはエライ人、か?
  3 テレビは“市民”のパスポート
     永遠に停滞するわれらの至福の共同体

Ⅲ“像”という名の妖怪が歩き出す
  1 われらの“現実”は仮装する
     メディアの権力を解剖する
  2 一枚の写真とイメージの罠
     感性の支配が確立するとき
  3 スキャンダルのケインズ理論
     広告代理店向け“疑惑”のマニュアル
  4“像”は君臨する
     露出する人々は権力を得る

Ⅳ 逆説のカラクリが情報を戦略する
  1 情報帝国主義の完成
     統制がリーグとなり、リーグが統制となる
  2 真のスキャンダルは逃亡する
     タレント・スターという機能
  3 メディア・ファシズムヘの逆転技
     官能を研ぎすませよ!

あとがき

1985年に刊行された本なので、出てくる事件は古いですが、しかし、書かれている内容はまったく古くありません。
それどころか、現在起きている福島第一原発の破局事故をめぐるさまざまな情報、あるいは政治、とくに小沢一郎の「陸山会事件」についての情報など、マスメディアがながすあらゆるニュースについて、これまでとはまったく異なる視点を読者のみなさんは持つことができると思います。

私はかつて、田中角栄という政治家は大変に悪い、金権政治家だと思っていました。
だから、東京地検特捜部によって田中角栄が逮捕され、総理の犯罪として裁かれたことに喝采を送ったものでした。
リクルート事件でも、はやり検察側の視点にたって特捜部やメディアの報道を見ていました。
鈴木宗男の「ムネオハウス」にしろしかりです。

しかし、そのすべてを一度、全面的に見直す必要があると今は思っています。
岡庭氏はこんなことを書いています。

《ヨーロッパをひとつの妖怪が徘徊する、共産主義という名の妖怪が》と若きマルクスは誇らかに書きつけた。いま、ずっとネガティブな意味であるが、市民社会を一つの妖怪が徘徊する、既視感(デジヤ・ヴユ)の他者であるところの“像”という名の妖怪が、とわたしは書きとめておかなければならない。

 高度に制度化された制度は、もはや制度であることを感じさせない。権力の最高度の達成とは、何よりも権力としての自己消滅である。支配されているという実感を、支配されている者の感性から拭い去ることこそ、支配の完成にほかならない。その意味で、鎖国ニッポンの完成、そこでの身体の囲いこみの完了は、警察や軍隊といった暴力による支配の形を遠く離れる。いまや支配されたがっている人間ほど、自分を自由だと実感しているはずだ。市民社会はすでに法や規範や戒律や禁忌や私刑で動かされているのではない。“空気”と“気分”こそが、市民社会の鉄の掟である。それは法や規範や戒律や禁忌や私刑以上に絶対管理制であるところの、いわばソフト・ファシズムである。このソフト・ファシズムはメディアによって司られている。とりわけて空気のファシズムたるテレビによって。

 このメディア・ファシズム状況の中核にあるものが“像”である。メディア批判は、報道の右傾化を憂うといったおなじみのスタイルにおいてではなく、メディアそのもののホンシツをつかない限り成り立たない。そのとき、メディアの支配力の源泉である“像”のトリックこそが、批判的な課題として考察されるべきである。

“像”とは、読んで字のごとく“像”である。たとえば山口百恵、田中角栄、三浦和義という名前から、われわれがおおむね共通に浮かべるイメージが“像”である。モモエにも、角栄氏にも、三浦サンにもさまざまな表情やシチュエーションがあるのだが、われわれはただひとつの“像”を条件反射するのだ。それは記号化された顔である。同時に意味が記号化している。彼らは既視感(デジヤ・ヴユ)のかたまりであり、それゆえ他者総体を代行している。つまり彼らが記号化されることは、現実そのものを記号化するということなのだ。そのことによって、われわれは空気の制度をみずからの手で完成しているといわねばならない。

 現実が“像”におきかえられる。同時に“像”もそのままたれ流されるだけでは“条件反射”を保証されないから、さまざまに“像”のころがし方が発達する。たとえば角栄さんに顕著だったような、“像ころがし”だ。三浦印や角栄印の場合のように“像ころがし”はますますテレビの支配機能を尖鋭にした。それに“像”をひきしめるスパイスの投入がある。スキャンダルの使用である。そんな風にして、現実と“像”をすりかえるメディア力学は、ますます盛大に栄えている。

 しかし、現実を記号に変え、他人の生き死にをイベントにすりかえるメディアと共犯に立つことで、市民たちはいずれ手ひどいしっぺ返しをうけるだろう。GNPぼけして忘れているが、半世紀前の日本人たちは、いよいよ自分が死地にひっぱられるまで、祖国ニッポンが自分たちの檻であるなどとは夢思わず、さまざまな国家製の物語や記号を娯楽していたのである。

本書を読むことで、日本を支配する「メディア・ファシズムの罠」を是非とも見抜く力をつけていただきたいと思います。
定価は500円です。

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2011年10月17日 (月)

『週刊岡庭昇41』 ~ 虚無国家ニッポン。

少し間隔があいてしまいましたが、『週刊岡庭昇』、その41、「虚無国家ニッポン。」をお届けします。

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週刊岡庭昇 41 ~ 虚無国家ニッポン。
(2011.9.20記) 

 散歩の途中、窓に向かってビル一階の椅子に腰掛けでいるわたしの前を、若い母が通り過ぎる。赤ん坊をおんぶと反対に首から下げている。霧のような淡い雨だが、間違いなく黒い雨が降り続いている。母親は傘もささず、乳母車なら辛うじて備えている屋根さえない。ちょっとわたしはびっくりするが、まだ暑い季節が続いているから気にも留めないのだろう。だがむろん、福島第一原発の爆発から半年、事態は何も換わっていないことは明白だ。
 どうしてこんなにむちゃなことをするのだろう。まさに実存としか形容出来ない一幅の絵である。なにもこの若い母を叱るわけではないが(そんなおっせっかいをするには、この国には絶望し切っている)、ちょっと報道を締めてある問題の露出を避ければ、事実は立ちどころに存在しなくなってしまう。例によって例のごとし、である。これほど操作しやすい「国民」もあるまい。
 昨日は原発爆発担当大臣が、冷温停止状態という目標は対策が進み、年内にも問題が解決するような演説をIETAで行った。またもペテンか? あてのない解決を、言い続けることが政治なのか。しかしペテンを前提にして、原発周辺の住民を家に返そうとする欺瞞に連続するのだから、放って置く訳にもいくまい。
 現実に触れないようにする操作と、ばらまかれるペテンの組み合わせ、それに嫌なことは極力忘れるように努める国民性との三位一体で、肝心な事実はいつものように雲散霧消する。あらゆる対抗理念の試みは挫折し、江戸時代はすっかり蘇った。不満を持たず従え。さすれば自分だけは救われる……。
 東電がすっかり増長して、被害者である国民に加害者たる自己の尻拭いをさせて平然としているのも当然なのかも知れない。加害者が被害者に事態の責任を負わせている端的な例は「節電」協力、正しくは強制である。暑い8月、近所の旨いコーヒー喫茶店は、「ギンギンに冷えてます」と謳って心意気を示したが、いつのまにかその看板を取り下げた。彼は何も言わないが例の文法、身近の人々や業界の、あれは「やっぱり」まずいよ、「この際だから」という情緒的な圧力があったことは容易に伺えるのだ。そうやっていつもこの国では、誰が悪いのかが問われることはない。すっかり安心してるだろ! 戦犯=原発=東電さんよ。
 2011.9.17の『東京新聞』朝刊の『こちら特報部』は、戦犯=東電のさらにつのる傲慢さを教えてくれる。「見出し」だけで、どんなに傲慢か分かる。

《東電 反省ゼロ/「知的財産守るため」/事故対策手順書 真っ黒/節電感謝 社長の姿なし/無神経な強気/値上げ武器 再稼働迫る/識者「まず総括原価方式変えよ》

 説明の必要はあるまい。恥知らずの開き直りに、つける薬などありはしないのである。そういうものには「解体」を希望するしかないのだ。
 2011.9、震災半年の時点で、福島第一原発爆発の隠された秘密のうち、明らかになった事実は大きなものに絞っても三つある。いずれも民衆が怒って、革命騒ぎになっても不思議ではない「秘密の暴露」だが、この国では不愉快な「おインテリさま」が、自己のナルシズムを満足させるための正義の表出(というイベント)がせいぜいのところである。それは決まって抽象の正義であって、AC共同広告機構と同じ代物なのだ。
 2011.9までに露出した、政府=東電のデマゴギーは無数にあるが、決定的なものはいま言ったように三つある。すなわち福島第一原発が爆発以来、垂れ流して来た放射能の総量はヒロシマの39.6倍に達しており、しかもその被爆からの立ち直りがヒロシマの場合年1000に対してフクシマ原発の場合20と比較にならぬほど深刻であることが一つ。なかでもセシウムの場合、フクシマはヒロシマの400倍である、というのがその2である。そして被災当初、原発が適切に任務を果たしていれば、爆発は起きなかった可能性が具体的に調査で明らかにされた、というのがその3である。
 どれも大変な事実であり、原発そのものの存続において致命的である。原発再開論など、意見の違いも何でもなく、ためにする悪党の言い草にすぎない。こんな失態が明らかになっても、虚偽を続けてきた政府=東電はなお恬として恥じず、実際上帝王だと言われる東電会長は逮捕は愚か、辞任さえしない。この奇妙極まりない奴隷のおとなしさを必然しているのは、何よりも民衆の側の「いくら批判しても、所詮は原発がなければやっていけない」という日本型メイファーズである。しかし一体誰が、そんなことを決めたのだ!
 実は財界=政界=マスコミによるスタート時点での、未来学的な蒙昧と楽天を引き摺った、根拠なき原発必要悪論こそが欺瞞の根源である。原発必要悪説を断固糾弾せよ。そんなことは刷り込まれた虚構で、ちっとも自明ではないと知るべし。
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Gwngos

かくもさまざまな言論操作

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2011年9月13日 (火)

『週刊岡庭昇』より ~ 「風評被害という呪文」をご紹介いたします

お陰さまで、弊社が刊行した『東京電力福島第一原発とマスメディア』、『戦後日本の思想』、『かくもさまざまな言論操作』はいずれも堅調な売れ行きを示しています。近々、第四弾も刊行いたしますが、これもまた大変に興味深い書籍ですので、是非、ご期待ください!
さて、本日は、『かくもさまざまな言論操作』の著書である岡庭昇さんが、個人的にお知り合いの方に出している(限定6部!)『週刊岡庭昇』の本年7月18日号を転載いたします。題して「風評被害という呪文」です。
なお、当ページでは、これからも『週刊岡庭昇』の一部を転載してまいりますので、どうぞご期待ください。

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週刊岡庭昇 32 ~ 風評被害という呪文
(2011.7.18記)

 風評被害という言葉について考える。
 結論をはじめに言っておくが、風評被害とは体制が(つまり官僚独裁が)、隠し通して来た情報が明らかになろうとするとき、それを是非もなく(つまり根拠を示さず)打ち消す暴力的なムード言語である(というように、かねてわたしの邪推は定まっている)。
 わたしは、1980年代を中心に、ハマチ産業等の薬漬け養殖、無茶な減反が生んだ米不足、つまり年間に国民が消費する標準米が決定的に足りなくなった事実と官僚による隠蔽、隠蔽の延長上に、危険を含む飼料用米を学校給食に送り込むなどの国家犯罪の疑いや、学校建築にアスベストが多く使われている事実と、その対策はなし崩しになったのではないかという疑い、さらに原発にマルタン(炭鉱離職者)を送り込むシステムが、労働手配師と電力が組む陰謀としてあったと推断せざるを得ない事実等、制度としての情報とか報道とは、すぐれて「情報隠し」のためにあるのではないかと思いつつ、その証拠のようなTVドキュメントを世間に届けた。
 老人の手柄話をやりたいのではない。25年からの日月が経って、いったい何が改善したのかと溜め息を吐いている。この嘆きは、いま挙げた例からも、一見して明らかであろう。お前は結局、いまでも通用すると威張ってる? それは手柄ではなく、紛れもなく悲嘆なのだ。わたしのドキュメントは、ただわたしを虚無主義者にしてくれただけだった。おかげでわたしは、高級な虚無哲学者として、銭ゲバ日本の現実に興味を持たなくなった。
 ただ恐らくは官僚独裁からのカウンターパンチとして、90年代に「風評被害」という言葉が作られたことは鮮やかに覚えている。「TVと気分を重ねた」ムード言語に支配される日本では、これで独裁は完璧に勝利を納めるだろうと思ったのである。「意外な事実」がもし暴露されても、「風評被害」という言葉の名人芸によって、是非もなく粉砕するだろう、とわたしはつくづく感心して、さらに現実から虚無の方向へ去ったのである。
 東北関東大震災は、久し振りにこの「言葉の政治」を思いださせてくれた。まず「風評被害」という言葉は使わなかったが、原発爆発に対する、「諸外国の過剰反応」という言葉がいっせいに日本の隅々まで流布された。しかし諸外国といえども、特派員は多くの国が日本に置いているのである。奇妙な言い方をするものだと思っていたが、隠し切れずにいまやあきらかになったさまざまな、かつ一部の事実だけでも明らかなように、事実を伝えたのは諸外国のマスコミだけだった。
 この虚偽に乗っかって、「風評被害」という悪魔のキーワードが大活躍する。原発事故の現場の野菜や魚に放射能被害が出ても、安全なものもあるのだから、ひっくるめて言うのは風評被害であるというように。しかしわれわれはクイズをやっているのではない。正解が決まっている環境問題などというものはない。危険な「可能性」が現実に存在するとき、「風評被害」などという批判は原理的に存在しないのである。生命・身体にとって、悪魔はこの「悪しき可能性」なのだから。
 現に汚染の確認は、いまだ後から後から続く。「風評被害」などという魔法の呪いでは、現実は救済されないのである。農民や漁民のふってわいた不幸を断ち切ろうとする努力は心情として当然のことだ。しかし農民や漁民はただ被害者なのであり、事態に責任を取ろうなどと考えるべきではない。一億総懺悔路線を刷り込んで、独裁はまたごまかそうとしているが、これは紛れもなく東電の犯罪であり、徹底して加害者東電から損害を支払わせ、全部資産を吐き出させた後は(あくまでも後だよ)国家に引き継ぐべきである。「悪しき可能性」という事実を懸念する者に、「風評被害」という汚名を投げ付け、ちょとやそっとで回復しない土地での農漁業の回復を焦るなどは、真犯人をうやむやにすることにもなりかねない。
 風評被害という言い方がマスコミに登場したら、まず警戒することだ。独裁に都合の悪いどんな事実が、今回は隠されているのだろうかと。
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Gwngos

かくもさまざまな言論操作

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