2012年1月28日 (土)

「テレビ帝国の教科書」 ボイジャーストアより発売!

先日来、ご案内しておりました、

書名: 『テレビ帝国の教科書 メディア・ファシズムの罠を見抜け!』
著者: 岡庭昇(元TBSドキュメント・ディレクター)
価格: 500円(税込)

がボイジャーストアより発売となりました。

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ボイジャーストア『テレビ帝国の教科書』

以下は、「はじめに――メディア・ファシズムとの共犯を断ち切れ」からの抜粋です。

 イヴァン・イリイチは、『学校化社会からの脱却』を著して、現代市民社会における学校化現象を批判し、そこからの脱却を提案した。それにならっていえば、わたしは早急なる“テレビ化社会からの脱却”を提案したい。“テレビを消せ”などという、つまらないお説教をしたいのではない。テレビを消しても、どうにもならない。逃避を試みても、その社会の内側に囚えられているという現実からは逃げられない。学校化社会からの脱却が、何よりも学校のホンシツと、学校化現象に蝕まれた市民社会への批判的な考察であったように、われわれはこの脱出のためにこそテレビに積極的に関わってみなければなるまい。
 この考察は四つの軸をもっている。

 ①は、テレビが(メディア・ファシズムが)しばしば武器として用いるスキャンダルは、どういうカラクリに充ちているのか、という問いである。この考察こそ本書の柱であり、ロス疑惑やかい人21面相を例にとりながら、第Ⅰ章にまとめた。

 簡単にいえば、テレビが送り出すさまざまな現実像のなかに、その一種類としてスキャンダルがあるのではない。すべての映像がスキャンダルである。あるいはすべての映像をスキャンダルとして処理するところにのみ、テレビがテレビとして成立している根本がある。そして、このようなものとしてのスキャンダルは、かならず権力悪としてのスキャンダルを背後にかくす役割をはたすのである。ちょうどテレビの送り出す明るい日常現実像が、現実の暗部を差別的に切り捨ててしまう役割であるのと、それはセットになっている。もっともらしい現実(NHKニュースのなかの市民社会)は、じつはさりげないイベントなのだが、それをホンモノに見せるために、もうひとつのどぎついイベントであるスキャンダルが演出されるのである。そこにマジメ=ホンモノ、不マジメ=ウソという迷信的二元論が交錯して、イベントとしてのニュースを現実像に粉飾することになる。

 ②は、テレビとはそもそもいかなる存在なのか、というホンシツ論である。このホンシツ的なメディア考は、なるべくホンシツ論議らしからぬ日常的なエピソードとして、第Ⅱ章にまとめた。
 ホンシツなどとは無縁なところに存在していることによって、ホンシツ的な批判から免れている(テレビへの悪口にロクな批評があったためしがない)のが、テレビのホンシツだからである。

 かくて、メディア・ファシズムの定義は、テレビをはじめとするマスコミが、用意した“像”をもって現実をフィクションする機能である、ということになろう。これが③である。この考え方については、第Ⅲ章で述べた。
 そしてスキャンダルもまた、ニセのスキャンダルによってかくされている。われわれがふつうスキャンダルと思っているものは、スキャンダルをかくすためのそのニセモノなのである。つまり、

 ④メディア社会は、すべてが逆説のカラクリに充ちていて、素直なヒトほどだまされてしまう。このカラクリの見抜き方を、第Ⅳ章でしめくくった。

 一般的に現代は情報化社会といわれる。むろん情報化社会とは、情報が不自由な社会のことである。ウソの情報ばかりが意図的に氾濫させられ、真の情報がかくされる時代の呼び名なのである。ここをまちがえてはいけない。だが、いかにわたしががんばったところで、たれ流されている大量のウソ情報の代わりに、ひとつひとつ真の情報を提示するなどということはできない。情報はいつも権力に所属し、その手によってかくされている。ただ、あらわれた限りでのフィクションとしての情報を読み替えることはできる。

 娯楽番組をやるときは笑顔で、ドタバタヴァラエティをやるときは純粋に不マジメな態度で、そしてニュースを報道するときは表情をひきしめて……というのがテレビの、よく考えてみればじつに奇妙な、グロテスクなしきたりである。そして、ホンシツをいえば、マジメな顔のニュースほど、じつはつくりものであり、しばしばウソッパチでもあるのだ。人々は多く、メディアのトリックであるところの“ヒトの態度がコトのなかみを決定する”というしきたりに慣らされてしまっている。そのためおふざけ番組は俗悪で、マジメな顔のニュースは真実だと条件反射する。しばしば条件反射が充たされないときは、やみくもにテレビに向かって反発する。なぜしきたりどおり、永野の死体が病院に運ばれたあとの“現場”をニュースしないのか、という程度の意味しかもたない抗議電話はこのわかりやすい例である。

 たとえば、いっけんぶっきらぼうな態度だが、とりあげていることがらへの真摯さがその奥にうかがわれる、というのはだめで、みるからに虚偽のとりつくろいで、対象に関心をもっていないマジメ風ないんぎん無礼は、大いに歓迎する。その結果、たとえば多くのNHKアナウンサーのような不気味な存在が出来上がってしまうのである。

 この逆立ちは、視聴者自身にはね返っている。“ヒトの態度がコトのなかみを決定する”という錯覚によって、大マジメな顔の情報は(記者クラブ発表のニュースは)それだけでホンモノだとうけとられる。やすやすとフィクションが流布される。大マジメな顔のアナウンサーと大マジメな顔の視聴者がメディアと共犯しつつ、物語を現実にすりかえる不マジメな作業にうちこんでいるということだ。

 さきほどもいったが、まさにあなた自身の問題として、いま、ほんとうに深刻にこのメディア・ファシズムの状況をふり返ってもらいたい。オレは何もしていない、ただ新聞やテレビから情報を与えられているだけで、そこにウソや物語がふくまれていればオレも被害者だ、というかもしれない。それもたしかに一面の真理だ。だが、一方的に被害者ではすまないところに事態がきていることもたしかなのである。

 この、くるところまできてしまったメディア・ファシズムの頽廃のなかで、なお“ただ与えられている”としたら、それはとりもなおさず共犯以外のなにものでもないのである。メディアほど受け手(消費者)の顔色をうかがっているものはない。わたしは従来つねにテレビ、新聞、週刊誌のつくり手を批判してきたし、これからもやってゆくつもりだが、近年“王様”としての視聴者“市民”の犯罪性を痛感することが多い。

 読者諸君、いますぐあなたの位置を徹底して検証せよ。そうでないと、とりかえしのつかない事態をあなた自身の手でつくり上げてしまうことになるだろう。

個人的な感想を言わせていただければ、上記の抜粋の最後の部分「とりかえしのつかない事態」は福島第一原発の破局事故で起きてしまったと思います。
しかし、それでもなお、政府やメディアの流す「福島は収束しつつある」という情報(あるいは「空気」)をアプリオリに信じてい国民が圧倒的に多数であることも事実です。
しかし、だとすると、岡庭論に従えば、さらにさらにとてつもない事態が起きてしまうかもしれません。
それを避けるためには、今こそ情報を正しく読む力をつけることが必要です。
本書は必ずそのお役に立てるものと確信しています。

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2011年9月13日 (火)

『週刊岡庭昇』より ~ 「風評被害という呪文」をご紹介いたします

お陰さまで、弊社が刊行した『東京電力福島第一原発とマスメディア』、『戦後日本の思想』、『かくもさまざまな言論操作』はいずれも堅調な売れ行きを示しています。近々、第四弾も刊行いたしますが、これもまた大変に興味深い書籍ですので、是非、ご期待ください!
さて、本日は、『かくもさまざまな言論操作』の著書である岡庭昇さんが、個人的にお知り合いの方に出している(限定6部!)『週刊岡庭昇』の本年7月18日号を転載いたします。題して「風評被害という呪文」です。
なお、当ページでは、これからも『週刊岡庭昇』の一部を転載してまいりますので、どうぞご期待ください。

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週刊岡庭昇 32 ~ 風評被害という呪文
(2011.7.18記)

 風評被害という言葉について考える。
 結論をはじめに言っておくが、風評被害とは体制が(つまり官僚独裁が)、隠し通して来た情報が明らかになろうとするとき、それを是非もなく(つまり根拠を示さず)打ち消す暴力的なムード言語である(というように、かねてわたしの邪推は定まっている)。
 わたしは、1980年代を中心に、ハマチ産業等の薬漬け養殖、無茶な減反が生んだ米不足、つまり年間に国民が消費する標準米が決定的に足りなくなった事実と官僚による隠蔽、隠蔽の延長上に、危険を含む飼料用米を学校給食に送り込むなどの国家犯罪の疑いや、学校建築にアスベストが多く使われている事実と、その対策はなし崩しになったのではないかという疑い、さらに原発にマルタン(炭鉱離職者)を送り込むシステムが、労働手配師と電力が組む陰謀としてあったと推断せざるを得ない事実等、制度としての情報とか報道とは、すぐれて「情報隠し」のためにあるのではないかと思いつつ、その証拠のようなTVドキュメントを世間に届けた。
 老人の手柄話をやりたいのではない。25年からの日月が経って、いったい何が改善したのかと溜め息を吐いている。この嘆きは、いま挙げた例からも、一見して明らかであろう。お前は結局、いまでも通用すると威張ってる? それは手柄ではなく、紛れもなく悲嘆なのだ。わたしのドキュメントは、ただわたしを虚無主義者にしてくれただけだった。おかげでわたしは、高級な虚無哲学者として、銭ゲバ日本の現実に興味を持たなくなった。
 ただ恐らくは官僚独裁からのカウンターパンチとして、90年代に「風評被害」という言葉が作られたことは鮮やかに覚えている。「TVと気分を重ねた」ムード言語に支配される日本では、これで独裁は完璧に勝利を納めるだろうと思ったのである。「意外な事実」がもし暴露されても、「風評被害」という言葉の名人芸によって、是非もなく粉砕するだろう、とわたしはつくづく感心して、さらに現実から虚無の方向へ去ったのである。
 東北関東大震災は、久し振りにこの「言葉の政治」を思いださせてくれた。まず「風評被害」という言葉は使わなかったが、原発爆発に対する、「諸外国の過剰反応」という言葉がいっせいに日本の隅々まで流布された。しかし諸外国といえども、特派員は多くの国が日本に置いているのである。奇妙な言い方をするものだと思っていたが、隠し切れずにいまやあきらかになったさまざまな、かつ一部の事実だけでも明らかなように、事実を伝えたのは諸外国のマスコミだけだった。
 この虚偽に乗っかって、「風評被害」という悪魔のキーワードが大活躍する。原発事故の現場の野菜や魚に放射能被害が出ても、安全なものもあるのだから、ひっくるめて言うのは風評被害であるというように。しかしわれわれはクイズをやっているのではない。正解が決まっている環境問題などというものはない。危険な「可能性」が現実に存在するとき、「風評被害」などという批判は原理的に存在しないのである。生命・身体にとって、悪魔はこの「悪しき可能性」なのだから。
 現に汚染の確認は、いまだ後から後から続く。「風評被害」などという魔法の呪いでは、現実は救済されないのである。農民や漁民のふってわいた不幸を断ち切ろうとする努力は心情として当然のことだ。しかし農民や漁民はただ被害者なのであり、事態に責任を取ろうなどと考えるべきではない。一億総懺悔路線を刷り込んで、独裁はまたごまかそうとしているが、これは紛れもなく東電の犯罪であり、徹底して加害者東電から損害を支払わせ、全部資産を吐き出させた後は(あくまでも後だよ)国家に引き継ぐべきである。「悪しき可能性」という事実を懸念する者に、「風評被害」という汚名を投げ付け、ちょとやそっとで回復しない土地での農漁業の回復を焦るなどは、真犯人をうやむやにすることにもなりかねない。
 風評被害という言い方がマスコミに登場したら、まず警戒することだ。独裁に都合の悪いどんな事実が、今回は隠されているのだろうかと。
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Gwngos

かくもさまざまな言論操作

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2011年9月 8日 (木)

『かくもさまざまな言論操作』を発売しました!

今週、2冊目の新刊が発売となりました。

Gwngos

かくもさまざまな言論操作

本書の著者、岡庭昇氏はかつて養殖ハマチの危険性などをテレビでスクープした元TBSのドキュメントディレクター(その時の本は『飽食の予言』に詳しい)。
早くから今日問題となっている行政やマスメディアの歪みをずっと以前から指摘されていた方です。
したがって、本書も1998年に刊行された本ながら、まったく古さを感じさせません。
たとえば原発について。

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 事態が教えるものは、あまりにもはっきりしている。この程度の基本的、初歩的な事故を起こしうる設備がそもそも原子力発電所なのだ、ということだ。これにつけ加える、どんな理屈も不要だろう。
 この場合も、あたりまえのことをあたりまえといい切ること、すなわち常識こそが大事なのではないだろうか。危ないものを危ないと感じて、危ないものはやめようと提案し、危ないものに執着する論理は成り立たないと、ごくごくまっとうに考える市民の発想以外に、本来「原発論議」は存在しないなずなのだ。
 なぜそれなのに、あまりにも事態は「ほんらい」ではなく、「あたりまえ」ではないものがまことしやかに存在してしまうのか。むしろ「あたりまえ」を、そのにぎやかさで圧倒してしまうのか。むろん、それこそが情報帝国主義の、情報帝国主義である証拠なのだ、といってしまえばそれまでなのだが。
 原発は、いわば「国是」である。「国策」なのである。そして、それが国策であるかぎり、それについての情報はまったく市民に知らされず、それに対するあらゆる疑念自体が認められない。それは、まさに国策であるゆえに存在理由を持つのであり、そこに懐疑も、検証もあってはならないのである。それこそが一党独裁の強いる現実にほかならない。国策であるならなおのこと、十分な検証が必要なはずなのだが、むろんそういう「まとも」は、そこでは通用しないのである。
 危ないものを危ないと感じて、危ないものをやめようと提案して、危ないものに執着する論理はあり得ないとするところの、「まっとうな」市民感覚は、原発をめぐって存在を許されなかった。情報帝国主義は、さまざまな手だてをもって、それを押さえ込んできたのである。
 そのひとつに、原発を危険だなどというのは、科学的な無知のしからしむるものにすぎない、という「理屈」がある。これはけっこう有効な詭弁だった。この「理屈」は、「危険性などはない」という結論を、「無知」呼ばわりと引き換えにきめつけるけれども、その「無知」が納得するようには説明してくれるわけではなく、ただ懐疑は無知の結果であると、決めつけるだけなのだから。
 たとえわれわれ市民が、科学的な専門性を持たないのは事実だとしても、そしてそのかぎりでは「無知」であるのが事実であるにしても、それを「無知」呼ばわりすることで懐疑を嘲笑し、否定した論議は、ついに懐疑のなかにある無知を、懐疑を超えたところの「納得して安心した知的認識」に転じさせることができなかった。そんなにも、説得力のない専門性などというものがあるだろうか。
 はっきりいって、このきめつけにあったのは、論理でも専門性でもなく、ただ「無知」という高飛車な罵倒で、懐疑自体を封じ込める「政治」なのであり、そうである限り「無知」が正当に感じている懐疑や危惧に対して、「無知」よりはるかに非論理的であることははっきりしているのだ。
 さて、だからこそわたしは、さきの指摘にこそここでもどらなければならない。すなわち、この程度の基本的、初歩的な事故の可能性を持つのが、原子力発電所というものなのである、という指摘に。
 科学的な知識が、それだけで認識の優越性を保証するという考え方自体が意味を持たないが、それ以上にここでの皮肉な結論は判然としている。懐疑や危惧を無知呼ばわりした、科学的に優越している立場が、少なくとも専門家としては、この程度に基本的で、初歩的な事故を起こしてしまったのだ。つまりは、非専門家の「無知」が感じた懐疑や危惧こそが、じつは正当に事態を認識していたわけなのだから。
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いかがでしょうか。実は上記の「事態」とは1997年3月11日(!)に動燃で起きた再処理工場爆発事故を指しています(私も今、改めてこの事故の日付を見てビックリしました)。
しかし、これはまったくもって2011年3月11日以降の東京電力福島第一原発事故にそのままあてはまります。
つまり、当時も今も、何も変わっておらず、岡庭氏が提出した問題は何も解決されないまま今日に至っていたというわけです。

さて、今回はすでにお伝えしましたように、「究極のニヒリズムを越えて――原発社会との対峙」という新たな書き下ろし原稿を加えての発売となります。
少しでも東京福島第一原発事故に関心のある方は、是非ともお読みいただいて、霞が関の官僚、財界、マスメディアによる「情報操作」に対する感性を磨いていただければと思います。

なお、これもすでにお伝えしましたように、岡庭氏が個人的に発行している「週刊岡庭昇」の一部原稿を、本書の発売記念として、今後、掲載していきますので、お楽しみにしていただければと思います。

なお、引き続き『戦後日本の思想』、『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』も好評、発売中です(電子書籍に絶版はありません)。

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戦後日本の思想

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『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』

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2011年9月 5日 (月)

本日、『戦後日本の思想』発売しました!

先日来、ご案内しておりました弊社電子書籍の第二弾、『戦後日本の思想』が本日18時よりボイジャーストアにて発売となりました。
本書はタイトル通り、戦後日本の思想の古典的名著で、以前のエントリーにも記しましたとおり、1959年に中央公論社から刊行されて以降、勁草書房、講談社学術文庫、そして岩波書店で二度にわたって書籍化されております。
今回は刊行記念ということで、中央公論社版のカバー右ソデに入っていた桑原武夫氏の評をご紹介いたします。

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 名著『現代日本の思想』において、思想を紙の上に定着されたものとしてでなく、社会に生きて人々を動かすものとして捉える新技術をあみ出した久野、鶴見両氏は、ここに新鋭藤田氏を加えて、私たちが今そこにすむ「戦後日本の思想」の検討に見事な成果をあげた。
 敗戦によって様相を一変した思想界に、たんに進歩、保守の対立を見るのみでなくそこに文学的、社会科学的、土着的の三発想法をからませ、さらに、日本人がいかに戦争体験をうけとめたかをさぐる。この六本の柱の検討にあたっては、まず柱のさしこまれている土質にふかい関心を示しつつ柱の支える家屋構造を明らかにする綿密な「報告」を行ない、さらに三人の自由討議によって、その彫りをふかめてゆく方法をとっている。定言的な結論を期待する怠惰な読者は、そこにあまりに多くの、時として相反しさえする観点を見出して、戸まどい的不満をもつかも知れぬ。しかし、思想とは自ら苦労して身につけるべきものと知る誠実な読者は、楽しい自由選択の知的作業をなしつつ、読みおわるとき、戦後思想の潮流の大別をいつしかわがものとしたことに気づくであろう。知性にとって最上のおくりものとして推せんする。
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いま日本は第二次世界大戦後最大の、というよりも歴史上、始まって以来の最大の国難に直面しています。
そうした中で、もちろんいま最優先に求められているのは福島第一原発が撒き散らかす放射能災害の収束、そして東日本大震災の爪あとからいかにして復興への道筋をつけるかということであることは言うまでもありません。
しかし一方で、ただ闇雲に「ヒト、モノ、カネ」を注ぎ込むだけでは、おそらく事態はいい方向へは向かわないでしょう。
私たちはポスト3・11の時代をいかに生きてゆかなくてはならないのでしょうか?
それを考えるためには、体だけでなく頭(思想)のトレーニングもまた必要なのだと思います。
正直言いまして、この本はなかなかに難しくとっつきやすいものではありません。
しかし、この本を読み終えたみなさんは、きっと桑原武夫氏の評に納得することでしょう。
自らの脳みそに負荷をかけることで、おそらくはとてつもなく厳しい時代になるであろう、3・11後の世界を生き抜く思想を身につける一助となればと思ったのが、本書の電子書籍化を思い立った理由です。

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戦後日本の思想

株式会社志木電子書籍
代表取締役 京谷六二

※なお『東京電力福島第一原発とマスメディア』も引き続き好評発売中です。
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『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』

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2011年8月30日 (火)

第二弾『戦後日本の思想』、及び第三弾『かくもさまざまな言論操作』についてのお知らせ

前エントリーでもお知らせした、久野収、鶴見俊輔、藤田省三著『戦後日本の思想』が間もなく発売されます(具体的な期日はまだ決定していませんが、1週間以内に発売する予定です)。

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さらに続けて、岡庭昇著『かくもさまざまな言論操作』をリリースいたします。
この本は1998年に出版された本ですが、今日の政治、メディアの問題を余すところなく指摘している点でまったく古くないどころか、いまもその問題点は一つも解決されてはいないことを実感します。
今回は、新たに「究極のニヒリズムを越えて――原発社会との対峙」という書き下ろも加えられています。
また、本書の発売を記念して、岡庭氏が個人的に配布している「週刊岡庭昇」を当ブログ、及び「誰も通らない裏道」で一部、掲載いたします。
どうかご期待ください。

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『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』

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2011年8月21日 (日)

志木電子書籍、第二弾のお知らせ

現在、志木電子書籍で進めております、次の刊行予定本についてお知らせいたします。
『東京電力福島第一原発とマスメディア』に続く弊社の第二弾 は、

久野収、藤田省三、鶴見俊輔 著 

『戦後日本の思想』

です。この本は1959年に中央公論社より刊行されましたが、その後、勁草書房(1966年)、講談社学術文庫(1976年)、岩波書店「同時代ライブラリー」(1995年)、同じく岩波書店「岩波現代文庫」(2010年)と5回にわたって書籍化された戦後思想の名著です。
今回、弊社ではその電子書籍化をいたします。
1945年(昭和20年)の敗戦に匹敵する危機に直面している今、是非、ご一読いただきたいと思います。
具体的な刊行日は後日、お知らせいたしますが、おそらく九月の上旬になると思われます。

さらに、立て続けにもう一冊も予定しております。
さらにさらに、九月から十月にかけて、怒涛の新刊攻勢をかけてまいりますので、どうかご期待ください。
また、引き続き『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』もよろしくお願いいたします。

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『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』

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2011年8月11日 (木)

『東京電力福島第一原発とマスメディア』に関するお知らせ

『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』に関するお知らせを一つさせていただきます。
この本は電子書籍の形態のみで販売しており、紙の書籍ではありません。したがいまして、書店では販売していないことをご了承ください。

現在はボイジャーストアのみで販売しており、パソコン、iPhone、iPadでの購読が可能です(データの形式はドットブックですが、今後、シャープのXMDF形式やEPUBにも対応していく予定です)。

なお、ボイジャーストアでは、現在、総合ランキングにランクインしておりますが、売れているのか? それとも電子書籍がまったく売れていないなかで、知人、友人が買っているから売れているのか? まだわかりません(^_^;)。
そういう状況ですが、是非、ご吹聴のほどお願い申し上げる次第です。

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『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』

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2011年8月 9日 (火)

新刊情報

当社の最初の新刊情報です。
著者は、、、当社の代表者(つまり自分)です(^_^;)。
究極の自炊ということになります。
この書籍は、私が2006年より開設していた「誰も通らない裏道」というブログの中から、原発とメディアの問題について書いたエントリーをピックアップして、それに加筆、修正を加えたもので、タイトルは『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』です。

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日本の歴史上、最悪の核災害はなぜ起きたのでしょうか?
どうして、マスメディアはことここに至っても、まともな報道ができないのでしょうか?
そんな原発事故とマスメディアの関係を3.11以前、3.11以降の2部に分けて編集しました。また、私の3・11体験についても書き下ろしてあります。
以下は主な目次です。

 第一部 「3・11」以前
  ・盗まれた都市
  ・原発は高い
  ・予定調和国家
  ・すべては予見されていた
  ・北朝鮮より立ちの悪い会社
  ・世界の独裁者があこがれる国
  ・柏崎原発――想定内の事故
  ・原発事故とオール電化住宅
  ・燃料電池と原子力発電
  ・真っ当でない連中と真っ当な方
  ・広告で雑誌のお里が知れる?
  ・亡国の官僚たち
  ・“電池の時代”が暴く原子力産業の闇
  ・不敬企業、不敬メディア
  ・地震の際の原発関連ニュースは発表ジャーナリズムの典型である
  ・東海地震と浜岡原発関連~溝上教授のコメント
  ・マスメディアこそが虚業だった
  ・広告不況がもたらすマスメディアのもう一つの劣化
  ・原発広告とメディアの関係

私の「3・11」

第二部 「3・11」以後
  ・圧倒的少数派
  ・マスメディア総崩れの中で
  ・稼働中の原発はすべて止めるべきである
  ・平成の「神聖喜劇」は世界を巻き込み始めている
  ・神頼み国家になった日本
  ・戦争と原発事故の違い
  ・東京電力とメディアが事故後の広告料金を開示しなければならない理由
  ・東電はもはや本気で事態を収束させるつもりはない
  ・十万円訴訟でわかった東京電力の恐るべき本音
  ・東京電力に破防法適用を!
  ・前代未聞の核災害を“食”から考える
  ・東電の責任追及はテロとの闘いである
  ・原子力推進派にデモクラシーマインドはない
  ・菅直人の脱原発宣言を疑う
  ・これから首都圏に家を買うのはおやめない

ご購入はこちらからとなります。
ボイジャーストア
定価500円。

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