2013年8月21日 (水)

「風流夢譚」を電子書籍化した理由

昨日、朝日新聞朝刊文化面に「風流夢譚」(深沢七郎)に関する記事が掲載されましたが、改めてなぜ「風流夢譚」を電子書籍化したかについて書きたいと思います。

まず作品自体について。
この小説は1960年12月号の「中央公論」に掲載された短編です。
私にはそのあらすじを書く力量がないので、以下に中村智子氏が書かれた「『風流夢譚』事件以後 編集者の自分史」の中で紹介されているあらすじの一部を引用させていただきます。

********************
「私」はある晩、夢をみた。井の頭線の渋谷ゆきに乗っていると、朝のラッシュ・アワーで満員の乗客が、「いま都内の中心地は暴動が起こっている」とさわいでいた。渋谷駅で八重洲口ゆきのバスの乗り場に並びながら、「革命ですか、左慾(サヨク)の人だちの?」ときくと、警視庁や自衛隊の下っぱはみんな我々の方について、ピストルや機関銃で射ち合いをやっている、皇居も完全に占領してしまった、ということだった。
「女性自身」の旗をたてた自動車にのった女の記者が、「これから皇居へ行って、ミッチーが殺(や)られるのをグラビヤにとるのよ」と嬉しがって騒いでいた。「軍楽隊もこっちへ帰順した」とまわりの人たちが拍手をはじめ、軍楽隊が“キサス・キサス”を演奏しながらやってきた。
 バスがきたので、わーっと乗りこんで、皇居広場へ行った。おでん屋や、綿菓子屋、お面屋などが出ていて。風船をバァーバァー鳴らしていた。その横で皇太子殿下と美智子妃殿下が仰向けに寝かされていて、いま、殺されるところである。そのヒトの振り上げているマサキリは私のものなので、(困るなア、俺のマサキリで首など切ってはキタナクなって)と思ったが、とめようともしない。マサキリはさーっと振り下ろされて、皇太子殿下と美智子妃殿下の首がスッテンコロコロと金属性の音をたてて向こうの方まで転がっていった。あとには首のない金襴の着物をきた胴体が行儀よく寝ころんでいた。
「あっちの方へ行けば、天皇・皇后両陛下が殺られている」と教えられて、人ゴミをわけて歩いて行った。交通整理のおまわりさんが立っていて、天皇・皇后の首なし胴体のまわりを一方通行で順に眺めた。天皇の首なし胴体のそばに色紙が落ちていたので、拾って読もうとしたが、毛筆でみみずの這ったようなくずし字なので判らない。五十年も皇居につとめていたという老紳士が、「それは天皇陛下の辞世のおん歌だ」と読んでくれた。
(以下略)
********************

この作品が発表されたのは、いわゆる60年安保が収束した直後であり、また日本社会党委員長の浅沼稲次郎が右翼の少年に刺殺された時期とも重なります。
つまり日本が高度成長に乗る以前の、まだ物情騒然としていた時代だったわけで、この小説を掲載した中央公論社は、12月号の発売直後から右翼の激しい抗議にさらされます。
さらに、翌1961年2月1日には、中央公論社の嶋中鵬二社長宅に右翼の少年が押し入り、お手伝いの女性が刺殺され、夫人が重傷を負うという事件が起きました(嶋中鵬二氏は不在だった)。

「言論の自由」という点で、この事件が日本のジャーナリズム史に与えた影響は非常に大きく、また「中央公論」もその後、大きく路線を変更していきます。
そして、この小説は以後、海賊版をのぞくと、公式に活字化されることはなく、封印されてしまいました。

この短編小説を電子書籍化しようと思いついた経緯については、朝日新聞記事にあるとおりですが、「3・11後の今、改めて読まれる意味があると思った」(朝日記事)という部分について、以下にもう少し詳しく書きたいと思います。

「風流夢譚」という小説については、非常に高い評価から、愚作、駄作、とんでもない不敬小説とさまざまな評価があります。
前出の中村智子氏は、この点について、

「この作品にこめられているのは、在来の権威への徹底的な揶揄である。皇室、和歌、三種の神器、文化勲章、そして革命が、嘲弄されている。それもとぼけた語りくちでかかれているために、いっそうくだらないものとして貶める効果を生んでいる。ゲラゲラ笑いながらよんだという人と、神経をさかなでされ、とくにスッテンコロコロの箇所に怒った人と、二様の反応があったのは、現代の日本人の皇室感覚の複雑さを示している。あるいは劇画の残酷シーンを見なれている今日の若者がよめば、なんの感情もおこさないかもしれない。」
と書かれています(前出・「『風流夢譚』事件以後」)。

私は父親(事件当時、「中央公論」編集次長)が掲載号を所持していたために、かつて学生時代に「風流夢譚」を読んだことがありましたが(今から30年以上前です)、正直、当時の感想を今思い出すことはできません。
そして一昨年、電子化を思い立って再度この小説を読み直したのですが、その時に真っ先に感じたのは、3・11後の状況は、60年安保当時と似ているのではないかということでした。

日本の戦後、もっとも大衆運動が盛り上がったのは、60年安保であることは間違いありません。
当時の映像を見ると、国会前をデモ隊が取り囲み警察とも激しく衝突しています。時代は「安保以前のすべての争点は安保体制に流れ込み、安保以後のすべての争点は安保体制から流れ出た」(京谷秀夫『一九六一年冬「風流夢譚」事件』)ような状況で、60年安保は戦後民主主義を標ぼうする人びとに重大な危機と認識されていました。

日本は第二次世界大戦という多大な犠牲の上に、ようやく民主主義を手にしました。しかしながら、それはアメリカの手によってもたらされてもので、昭和天皇の戦争責任をきちんと追及し、国民自らの手によってかちとものではありません。
その意味で、実は日本は表面的には軍国主義から民主主義へと転換したものの、本質的な国家体制に変化はなかったのだと私は思います。
そして迎えた60年安保は空前の盛り上がりとなったものの、しかし最終的にはここでもまた何ら国家体制に変化をもたらさないまま収束しました。

「風流夢譚」が発表されたのは、まさにその頃でした。そして、私が二度目にこの小説を読んで思ったのは、深沢氏は、

「なんだ、安保闘争というのはその程度のものだったのか。これまで自ら革命を起こしたこともなく、民主主義も戦勝国からいただいた国民が、今回は何かしらやるのかと思って見ていたら、結局、なにも起らなかったし変わらなかったじゃないか」

という感想を持ったのではないかということでした。
したがって、深沢氏はそんな日本人への皮肉をこめて、革命にわくわくする主人公を登場させつつ、しかしそれは夢の世界のこととしたのではないでしょうか?

もちろん、これは勝手な解釈ですが、そう考えた時、3・11後の状況と50年前に書かれた小説がつながりました。

今日も深刻な汚染水漏れが報じられる福島第一原発は、2011年3月11日以後、3つの原子炉がメルトスルーして、いまも溶け落ちた燃料がどこにあるのかもわかりません。
つまりこの破局事故はまったく収束していないのであって、人類史上未経験の事態がいまこの瞬間も進行中です。
これには、さしものおとなしい国民も、脱原発の声を上げ始め、60年安保以来であろうデモが行なわれるに至りました。

ところが、それでもこの国の原子力政策は変わることはありません。
「たとえ東京電力が何度倒産しても、日本という国が破産しても贖いきれないほどの被害がすでに出ている」(京都大学原子炉実験所・小出裕章助教)にもかかわらず、原子力発電を推進してきた東京電力の会長、社長以下の経営陣、あるいは原子力ムラの人びとの誰一人として責任をとっていないのです(現首相の安倍晋三も、前回の首相時代、共産党の吉井英勝議員の質問に答えて「事故は起きない」と答弁しています)。

こんな状況の中、もし「風流夢譚」を現在に設定し直したら、、、
その舞台は皇居ではなく東京電力本社の前であって、断罪されるのはその経営者たちになるのではないか。
私はそんなふうに思ったのです。

そして、だとすると──。
50年前の深沢氏の「やっぱり何も変わらないじゃないか」という問いかけは、今なおわれわれ国民に、鋭く突きつけられているのであって、もしこれだけ破局的な原発事故を経験してもこの国が変わることができなければ、後世に多大な困難を残して何一つとして責任をとらないことになってしまいます。

本当にそれでいいのでしょうか?
小出裕章氏は「これだけの事故が起きても変わらなければ、この日本という国はダメだと思います」とおっしゃっていますが、このまままた「夢譚」に終わってしまっていいのでしょうか?
そういう思いも込めて、「風流夢譚」の電子化をした次第です。

※「風流夢譚」はAmazon以外での主な電子書店でも取り扱いしてます(koboは未対応)。

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2013年6月28日 (金)

代表者がインタビューを受けました。

「出版人・広告人」7月号にて、志木電子書籍代表者がインタビューを受けました。
下記のリンクより該当部分をご覧いただけます。

・「出版人・広告人」2003年7月号
電子書籍に志の木を植える

※関連リンク
・マガジン航
幻の小説「風流夢譚」を電子書籍化した理由

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2013年1月 7日 (月)

新年は『風流夢譚』をKindleで!

明けましておめでとうございます。

本年もよろくしお願いいたします。
またまたページの更新が遅くなっておりますが、弊社では昨年末よりKindleに対応いたしました。
したがいまして、『風流夢譚』など貴重なコンテンツをKindleで読めるようになっております。

Kindleにつきましては、専用のディバイスがなくとも、スマートフォン、タブレット用(Android、iPadの双方あり)のアプリも用意されております。
一度、購入すれば、どのディバイスでも閲覧することができ、しかも読み進めた箇所を同期します。

大変、便利なアプリですので、是非、ご活用ください!


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2012年3月26日 (月)

電子書籍のメリット
文字を拡大した場合の比較をしてみました!

これまで、このサイトでは弊社の電子書籍のご案内ばかりしてきましたが、これからは電子書籍そのものの情報もどんどんお伝えしていきたいと思います。

電子書籍の最大のメリットは何か。それは文字を拡大して読むことができることだと思います。
実は私も年とともに目は悪くなるので、小さな文字を読むのは苦痛になりつつあります。
また、パソコンでの作業においても目は疲れるものです。

そこで、最近は電子書籍を制作する作業をしている時、プレビュー画面を見る時には、文字をできるだけ大きくしてモニタに表示するようにしました。
たとえば、こんな↓感じになります(画像をクリックするとポップアップします)。

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ちなみにモニタは21インチです。
さて、一度これで作業をすると、、、
非常にラクで、次からもこのぐらいの大きさにしないわけにはいきません。

まあ年配者でなければ、文字は大きくする必要はないという意見もあるかもしれませんが、たとえば速読をするなら字は大きくした方が絶対に速いです。
したがって、文字を大きくできるということは、すべての年代の人にとって“いいこと”ということになります。

弊社が作っている電子書籍は、このように文字を大きく拡大しても改行が崩れません。
これをリフロー型電子書籍といいます。どれだけ文字を拡大しても、画面の枠の中に入り、しかも行が崩れないというわけです。
では、iPadではどうなるかを見てみましょう(画像をクリックするとポップアップします)。

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これをもう少し拡大すると、、、(画像をクリックするとポップアップします)

Img_0013

さらに拡大すると↓のようになります(画像をクリックするとポップアップします)。

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ちなみに以上の3つの画像は、すべて同じiPad上のものです。
iPadの場合も、私は一度、文字を大きくしたら、もう小さな文字には戻れなくなってしまいました。

(一方で、よく本を断裁してスキャニングし、PDF化してiPadに取り込んで読むという方法もありますが、これだと文字を大きくしてしまうと、一つの画面の中でスクロールをしなければならなくなり、非常に煩雑になます)

このリフロー型電子書籍を私の80歳を越える親に見せたところ、「これはイイ!」ということでiPadを購入することになりました。

書籍の場合も大活字本というのはありますが、これはページ数が多くなり本が重くなります。
が、電子書籍の場合は何ページになろううが、それで本が重くなるということはありません。
これが、一つ大きな電子書籍のメリットです。

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『殺人流線型』
友人のネット古書店「くろねこ堂」さんでは

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私の友人でネット古書店をやっていらっしゃるくろねこ堂さんでは、柳香書院が1935年に刊行した大倉燁子著『殺人流線型』は現時点で70,000円となっています。

・くろねこ通信
大倉燁子「殺人流線型」(柳香書院)

同じ書籍でも、古書と電子書籍はまったく異質です。
この柳香書院版の価格にしても、あくまで古書としての価値なわけですが、逆に言えば、これを購入しても手に取って読むのはなかなか大変で勇気が必要です。
であれば、実際に読むのは電子書籍というパターンもあっていいかもしれません。

かつて、レコードなどは保存版と実際に聴く版を持っていたりする人がいましたが、そのように古書と電子が共存していくことができるかもしれません。

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2012年2月 3日 (金)

電子書店 対応端末一覧表を作成しました!

電子書店は、購入先によって使用できる端末が異なります。
以下に一覧表を作りました(随時、更新していきます)。
画像をクリックすると拡大します。

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2012年1月28日 (土)

「テレビ帝国の教科書」 ボイジャーストアより発売!

先日来、ご案内しておりました、

書名: 『テレビ帝国の教科書 メディア・ファシズムの罠を見抜け!』
著者: 岡庭昇(元TBSドキュメント・ディレクター)
価格: 500円(税込)

がボイジャーストアより発売となりました。

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ボイジャーストア『テレビ帝国の教科書』

以下は、「はじめに――メディア・ファシズムとの共犯を断ち切れ」からの抜粋です。

 イヴァン・イリイチは、『学校化社会からの脱却』を著して、現代市民社会における学校化現象を批判し、そこからの脱却を提案した。それにならっていえば、わたしは早急なる“テレビ化社会からの脱却”を提案したい。“テレビを消せ”などという、つまらないお説教をしたいのではない。テレビを消しても、どうにもならない。逃避を試みても、その社会の内側に囚えられているという現実からは逃げられない。学校化社会からの脱却が、何よりも学校のホンシツと、学校化現象に蝕まれた市民社会への批判的な考察であったように、われわれはこの脱出のためにこそテレビに積極的に関わってみなければなるまい。
 この考察は四つの軸をもっている。

 ①は、テレビが(メディア・ファシズムが)しばしば武器として用いるスキャンダルは、どういうカラクリに充ちているのか、という問いである。この考察こそ本書の柱であり、ロス疑惑やかい人21面相を例にとりながら、第Ⅰ章にまとめた。

 簡単にいえば、テレビが送り出すさまざまな現実像のなかに、その一種類としてスキャンダルがあるのではない。すべての映像がスキャンダルである。あるいはすべての映像をスキャンダルとして処理するところにのみ、テレビがテレビとして成立している根本がある。そして、このようなものとしてのスキャンダルは、かならず権力悪としてのスキャンダルを背後にかくす役割をはたすのである。ちょうどテレビの送り出す明るい日常現実像が、現実の暗部を差別的に切り捨ててしまう役割であるのと、それはセットになっている。もっともらしい現実(NHKニュースのなかの市民社会)は、じつはさりげないイベントなのだが、それをホンモノに見せるために、もうひとつのどぎついイベントであるスキャンダルが演出されるのである。そこにマジメ=ホンモノ、不マジメ=ウソという迷信的二元論が交錯して、イベントとしてのニュースを現実像に粉飾することになる。

 ②は、テレビとはそもそもいかなる存在なのか、というホンシツ論である。このホンシツ的なメディア考は、なるべくホンシツ論議らしからぬ日常的なエピソードとして、第Ⅱ章にまとめた。
 ホンシツなどとは無縁なところに存在していることによって、ホンシツ的な批判から免れている(テレビへの悪口にロクな批評があったためしがない)のが、テレビのホンシツだからである。

 かくて、メディア・ファシズムの定義は、テレビをはじめとするマスコミが、用意した“像”をもって現実をフィクションする機能である、ということになろう。これが③である。この考え方については、第Ⅲ章で述べた。
 そしてスキャンダルもまた、ニセのスキャンダルによってかくされている。われわれがふつうスキャンダルと思っているものは、スキャンダルをかくすためのそのニセモノなのである。つまり、

 ④メディア社会は、すべてが逆説のカラクリに充ちていて、素直なヒトほどだまされてしまう。このカラクリの見抜き方を、第Ⅳ章でしめくくった。

 一般的に現代は情報化社会といわれる。むろん情報化社会とは、情報が不自由な社会のことである。ウソの情報ばかりが意図的に氾濫させられ、真の情報がかくされる時代の呼び名なのである。ここをまちがえてはいけない。だが、いかにわたしががんばったところで、たれ流されている大量のウソ情報の代わりに、ひとつひとつ真の情報を提示するなどということはできない。情報はいつも権力に所属し、その手によってかくされている。ただ、あらわれた限りでのフィクションとしての情報を読み替えることはできる。

 娯楽番組をやるときは笑顔で、ドタバタヴァラエティをやるときは純粋に不マジメな態度で、そしてニュースを報道するときは表情をひきしめて……というのがテレビの、よく考えてみればじつに奇妙な、グロテスクなしきたりである。そして、ホンシツをいえば、マジメな顔のニュースほど、じつはつくりものであり、しばしばウソッパチでもあるのだ。人々は多く、メディアのトリックであるところの“ヒトの態度がコトのなかみを決定する”というしきたりに慣らされてしまっている。そのためおふざけ番組は俗悪で、マジメな顔のニュースは真実だと条件反射する。しばしば条件反射が充たされないときは、やみくもにテレビに向かって反発する。なぜしきたりどおり、永野の死体が病院に運ばれたあとの“現場”をニュースしないのか、という程度の意味しかもたない抗議電話はこのわかりやすい例である。

 たとえば、いっけんぶっきらぼうな態度だが、とりあげていることがらへの真摯さがその奥にうかがわれる、というのはだめで、みるからに虚偽のとりつくろいで、対象に関心をもっていないマジメ風ないんぎん無礼は、大いに歓迎する。その結果、たとえば多くのNHKアナウンサーのような不気味な存在が出来上がってしまうのである。

 この逆立ちは、視聴者自身にはね返っている。“ヒトの態度がコトのなかみを決定する”という錯覚によって、大マジメな顔の情報は(記者クラブ発表のニュースは)それだけでホンモノだとうけとられる。やすやすとフィクションが流布される。大マジメな顔のアナウンサーと大マジメな顔の視聴者がメディアと共犯しつつ、物語を現実にすりかえる不マジメな作業にうちこんでいるということだ。

 さきほどもいったが、まさにあなた自身の問題として、いま、ほんとうに深刻にこのメディア・ファシズムの状況をふり返ってもらいたい。オレは何もしていない、ただ新聞やテレビから情報を与えられているだけで、そこにウソや物語がふくまれていればオレも被害者だ、というかもしれない。それもたしかに一面の真理だ。だが、一方的に被害者ではすまないところに事態がきていることもたしかなのである。

 この、くるところまできてしまったメディア・ファシズムの頽廃のなかで、なお“ただ与えられている”としたら、それはとりもなおさず共犯以外のなにものでもないのである。メディアほど受け手(消費者)の顔色をうかがっているものはない。わたしは従来つねにテレビ、新聞、週刊誌のつくり手を批判してきたし、これからもやってゆくつもりだが、近年“王様”としての視聴者“市民”の犯罪性を痛感することが多い。

 読者諸君、いますぐあなたの位置を徹底して検証せよ。そうでないと、とりかえしのつかない事態をあなた自身の手でつくり上げてしまうことになるだろう。

個人的な感想を言わせていただければ、上記の抜粋の最後の部分「とりかえしのつかない事態」は福島第一原発の破局事故で起きてしまったと思います。
しかし、それでもなお、政府やメディアの流す「福島は収束しつつある」という情報(あるいは「空気」)をアプリオリに信じてい国民が圧倒的に多数であることも事実です。
しかし、だとすると、岡庭論に従えば、さらにさらにとてつもない事態が起きてしまうかもしれません。
それを避けるためには、今こそ情報を正しく読む力をつけることが必要です。
本書は必ずそのお役に立てるものと確信しています。

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2012年1月26日 (木)

『テレビ帝国の教科書 メディア・ファシズムの罠を見抜け!』明日発売

長らく更新が滞ってしまいました(これからはそのようなことがないようにしていくつもりです)。

さて、本年の弊社第一作目を明日夕方より、ボイジャーストアにて先行発売いたします。

タイトル:『テレビ帝国の教科書 メディア・ファシズムの罠を見抜け!』
著者: 岡庭昇

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岡庭昇氏の著作としては、弊社では2冊目の電子化となります。
まずは目次のご紹介。

二〇一二年──電子書籍版への序文

はじめに──メディア・ファシズムとの共犯を断ち切れ

Ⅰ メディアとスキャンダルが相姦する

  1 ロス疑惑とテレビの新時代

    “疑惑”という名の公開処刑イベント
  2 かい人21面相と事件の“顔”
     仮説・グリコ‥森永不連続説
  3 倉田まり子と国家のスキャンダル
    “コト”が“ヒト”にすりかわる
  4 山口組と劇場犯罪
     あらゆるスキャンダルはイベントとなる

Ⅱ テレビは空気のような罠である
  1 体験的“抗議電話”
     それはリアクションとしてのアクションである
  2 安心は既視感のなかに
     メディアに出るのはエライ人、か?
  3 テレビは“市民”のパスポート
     永遠に停滞するわれらの至福の共同体

Ⅲ“像”という名の妖怪が歩き出す
  1 われらの“現実”は仮装する
     メディアの権力を解剖する
  2 一枚の写真とイメージの罠
     感性の支配が確立するとき
  3 スキャンダルのケインズ理論
     広告代理店向け“疑惑”のマニュアル
  4“像”は君臨する
     露出する人々は権力を得る

Ⅳ 逆説のカラクリが情報を戦略する
  1 情報帝国主義の完成
     統制がリーグとなり、リーグが統制となる
  2 真のスキャンダルは逃亡する
     タレント・スターという機能
  3 メディア・ファシズムヘの逆転技
     官能を研ぎすませよ!

あとがき

1985年に刊行された本なので、出てくる事件は古いですが、しかし、書かれている内容はまったく古くありません。
それどころか、現在起きている福島第一原発の破局事故をめぐるさまざまな情報、あるいは政治、とくに小沢一郎の「陸山会事件」についての情報など、マスメディアがながすあらゆるニュースについて、これまでとはまったく異なる視点を読者のみなさんは持つことができると思います。

私はかつて、田中角栄という政治家は大変に悪い、金権政治家だと思っていました。
だから、東京地検特捜部によって田中角栄が逮捕され、総理の犯罪として裁かれたことに喝采を送ったものでした。
リクルート事件でも、はやり検察側の視点にたって特捜部やメディアの報道を見ていました。
鈴木宗男の「ムネオハウス」にしろしかりです。

しかし、そのすべてを一度、全面的に見直す必要があると今は思っています。
岡庭氏はこんなことを書いています。

《ヨーロッパをひとつの妖怪が徘徊する、共産主義という名の妖怪が》と若きマルクスは誇らかに書きつけた。いま、ずっとネガティブな意味であるが、市民社会を一つの妖怪が徘徊する、既視感(デジヤ・ヴユ)の他者であるところの“像”という名の妖怪が、とわたしは書きとめておかなければならない。

 高度に制度化された制度は、もはや制度であることを感じさせない。権力の最高度の達成とは、何よりも権力としての自己消滅である。支配されているという実感を、支配されている者の感性から拭い去ることこそ、支配の完成にほかならない。その意味で、鎖国ニッポンの完成、そこでの身体の囲いこみの完了は、警察や軍隊といった暴力による支配の形を遠く離れる。いまや支配されたがっている人間ほど、自分を自由だと実感しているはずだ。市民社会はすでに法や規範や戒律や禁忌や私刑で動かされているのではない。“空気”と“気分”こそが、市民社会の鉄の掟である。それは法や規範や戒律や禁忌や私刑以上に絶対管理制であるところの、いわばソフト・ファシズムである。このソフト・ファシズムはメディアによって司られている。とりわけて空気のファシズムたるテレビによって。

 このメディア・ファシズム状況の中核にあるものが“像”である。メディア批判は、報道の右傾化を憂うといったおなじみのスタイルにおいてではなく、メディアそのもののホンシツをつかない限り成り立たない。そのとき、メディアの支配力の源泉である“像”のトリックこそが、批判的な課題として考察されるべきである。

“像”とは、読んで字のごとく“像”である。たとえば山口百恵、田中角栄、三浦和義という名前から、われわれがおおむね共通に浮かべるイメージが“像”である。モモエにも、角栄氏にも、三浦サンにもさまざまな表情やシチュエーションがあるのだが、われわれはただひとつの“像”を条件反射するのだ。それは記号化された顔である。同時に意味が記号化している。彼らは既視感(デジヤ・ヴユ)のかたまりであり、それゆえ他者総体を代行している。つまり彼らが記号化されることは、現実そのものを記号化するということなのだ。そのことによって、われわれは空気の制度をみずからの手で完成しているといわねばならない。

 現実が“像”におきかえられる。同時に“像”もそのままたれ流されるだけでは“条件反射”を保証されないから、さまざまに“像”のころがし方が発達する。たとえば角栄さんに顕著だったような、“像ころがし”だ。三浦印や角栄印の場合のように“像ころがし”はますますテレビの支配機能を尖鋭にした。それに“像”をひきしめるスパイスの投入がある。スキャンダルの使用である。そんな風にして、現実と“像”をすりかえるメディア力学は、ますます盛大に栄えている。

 しかし、現実を記号に変え、他人の生き死にをイベントにすりかえるメディアと共犯に立つことで、市民たちはいずれ手ひどいしっぺ返しをうけるだろう。GNPぼけして忘れているが、半世紀前の日本人たちは、いよいよ自分が死地にひっぱられるまで、祖国ニッポンが自分たちの檻であるなどとは夢思わず、さまざまな国家製の物語や記号を娯楽していたのである。

本書を読むことで、日本を支配する「メディア・ファシズムの罠」を是非とも見抜く力をつけていただきたいと思います。
定価は500円です。

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2011年12月 2日 (金)

志木電子書籍からのお知らせ ~ 新刊情報その1 「『風流夢譚』事件以後」

弊社の12月の新刊のご案内です。

すでにご案内をしておりました中村智子著「『風流夢譚』事件以後 編集者の自分史」を来週12月5日(火)18:00よりボイジャーストアにて、また16日(金)より紀伊国屋BookWeb、Reader Store他にて販売開始いたします。
本書の著者、中村智子氏は元中央公論社の編集者で、「風流夢譚」事件、「思想の科学 天皇制特集号断裁」事件、そして中央公論社で勃発した「言論の自由問題」の当事者でありました。
底本は1976年発売ですが、当時はまだ中央公論社の社員であり、前述の事件を会社の内側から証言した貴重なドキュメントです。

鶴見俊輔氏は当時、本書に下記のような文章を寄せています。

**********
誰しも自分が当事者として
うずの中にまきこまれた事件について
語ることはむずかしい。
十五年前の「風流夢譚事件」と
「思想の科学天皇制特集号断裁」とは、
中央公論社という出版社の経営者、
編集者、社員、執筆者、読者にとって、
それぞれの生活と
思想にかかわる出来事だった。
著者は、当時の編集者として、
身辺のディテイルにとらわれることなく、
言論の自由を守るとは
実際的にどういうことかをくりかえし
新しく自他に問いかけ、
あくまでもこの問題を念頭において、
太い線でこの事件の骨格をとらえた。
編集という仕事への打ちこみの深さが、
このことを可能にした。
当事者の書く記録は、
ひずみをもちやすいけれども、
当事者が手がかりをあたえることなしに
一つの出来ごとについて
納得のゆく記録が編まれることはない。
**********

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間もなく発売です。
ご期待ください。

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2011年11月11日 (金)

本日18時から深沢七郎著「風流夢譚」を発売いたします

本日、18時よりボイジャーストアにて、深沢七郎著「風流夢譚」の発売を開始いたします(URLは発売時に再度、ご案内いたします)。

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この短編小説は1960年12月号の雑誌「中央公論」に一度だけ掲載されて以降、海賊版以外で活字化されたことはありません。
それは、この小説中における皇室表現が大きな問題となり、結果として死傷者が出るまでに至ったからです(嶋中事件)。
今回、弊社ではこの50年前の中央公論を底本として、「風流夢譚」を復刻いたしました。

東京電力福島第一原子力発電所が破局的な事故が起き、その被害規模はすでに未知の領域に入っているにもかかわらず、なお暴動が起きることもなく、国会や東京電力の周囲を群衆が取り囲むこともない現在の日本において、この短編小説がどのように読まれるのでしょうか?
是非、ご一読いただき、感想をお寄せいただきたいと思います。

なお、この「風流夢譚」については、当時、中央公論の編集部に在籍していた編集者による著書が過去に2冊出版されています。
そのうちの1冊はすでに今週月曜日より弊社にて発売しております。

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書名:一九六一年冬「風流夢譚」事件
著者:京谷秀夫

また、中村智子著「『風流夢譚』事件以後」も12月に発売する予定です。

なお、12月の初旬以降、弊社の電子書籍はボイジャーストア以外の電子書店でも販売することとなり、これに伴い、ソニーリーダー、アンドロイド系スマートフォンなど閲覧可能なディバイスも一挙に増えますが、これについては、またご案内いたします。

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