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2012年2月 7日 (火)

大泉黒石著
『 人 間 開 業 』
著者略歴&立読み版!

※本書は来週2月14日(ボイジャーストア)以降、順次、各書店で発売の予定です。
発売日は順次、お知らせしてまいります。

書名: 『人間開業』
価格: 630円

Small

著者: 大泉黒石(おおいずみ・こくせき/1893-1957)
    ⇒ウィキペディア「大泉黒石」 

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立読み版は、「挨拶」と「目次」、および「少年時代 一」です。
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『人間開業』_立読み版

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【立読み版】

人間開業

大泉黒石

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   挨 拶

 最も平凡な言葉を借用して言うならば、実に作者の私をして文壇的にも社会的にも一躍有名ならしめたこの随筆体小説『世界人(コスモポリタン)』は、即ち過去七年間にわたって『中央公論』にのせた『俺の自叙伝』第一から第五までを集めたものである。もう一度この調子で書いてくれと頼まれても書けるかどうか解らないし、実際書けそうにもない。この意味に於て、この一冊は私の文学者生活に於ける、一つの高大な記念塔だとも言えるだろう。ところで、読者諸君の中には、この中の、どれか一つくらいは目を通した人もないとは限らないが、こうして全部まとまるのを待っている人も少なくないようだから、即ちここに旧態を守って謹んで是を出版し、私の親愛なる読者諸君に向かって簡単な挨拶を申し上げて、以って序文とする次第である。
  一九二六年二月
                大 泉 黒 石

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   目  次

少 年 時 代
青 年 時 代
労 働 者 時 代
文 士 時 代

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少 年 時 代

     一

 アレキサンドル・ワホウィッチは、俺の親爺(おやじ)だ。親爺は露西亜(ロシア)人だが、俺は国際的な居候(いそうろう)だ。あっちへ行ったりこっちへ来たりしている。泥棒や人殺しこそしないが、大抵のことはやってきたんだから、大抵のことは知っているつもりだ。ことに、露西亜人で俺くらい日本語のうまい奴は確かにいまい。これほど図々しく自慢が出来なくちゃ、愚にもつかない身の上譚が臆面もなく出来るものじゃない。
 露西亜の先祖はヤスナヤ・ポリヤナから出た。レオフ・トルストイの邸から二十町ばかり手前で、今残っている農夫のワホウィッチというのが本家だ。俺の親爺は本家の総領だった。
 日本の先祖はどこから来たんだか、あまりいい家柄でないとみえて系図も何もない。祖父の代から知っているだけだ。俺の祖父は本川といった。下関の最初の税関長がそうだ。維新頃日本にも賄賂が流行したとみえて、祖父は賄賂を取ったのか、取り損ねたのか、そこははっきり知らないが、長州の小さい村で自殺した。あまり人聞きのいい話ではないが、恥を打ち明けないと真相が解らないから、敢えて祖先の恥をさらす。さぞ、不孝な孫だと思っているだろう。
 俺のお袋 Keita(恵子)はこの人の娘だ。俺を生むと一週目に死んだから、まるで顔を知らない。そんな理由から親類の有象無象が俺のことを仇子(かたぎご)というんだろう。俺には兄弟がない。天にも地にもたった一人だ。
 露西亜の先皇が日本を見舞った──その時はまだ彼は皇太子だった──とき親爺も末社の一人だった。親爺が長崎へ立ち寄ったとき、ある官吏の世話でお袋を貰ったんだそうだ。その時親爺はまだ天津の領事館にいた。
 お袋は露西亜文学の熱心な研究者だった。それは彼女の日記や蔵書を見ても解る。それで、親爺がお袋をくれろと談判に来たとき、物の解らない親類の奴共が大反対をしたにもかかわらず、彼女は黙って家を飛び出して行った。旧弊人共が、お恵さんは乱暴な女だと、攻撃した。「わたしは、その時、どうしようかと思って困り果(はて)たばな」と、祖母が言った。
 俺は二十七だ。
 支那海の波が長崎港へ押し寄せて来る、英彦山がまともに見えるだろう、山麓の蛍茶屋から三つ目の橋際に芝居小屋があるだろう、その隣が八幡宮だ。鳥居をくぐると青桐の陰に白壁の暗い家がある。今でも無論あるはずだ。そこでお袋は俺を生んで直ぐ死んだ。死んだときは十六歳だった。
「おばあさまに難儀をかけずに、大きくなってくだはれ」と、言って息を引き取ったそうだが、おばあさまには、それ以来難儀のかけどおしで、まことに申し訳がない。
 乳母は淫奔な女だったと誰でも言う。俺を三つまで世話して、情夫と豊後へ駆け落ちする途中、耶馬渓の柿坂で病没したそうで、乳母の母親が、娘が可哀想だから、何とぞ石塔を一基建ててくれと何遍も頼みに来たが、頑固な祖母が、不人情なわがまま者のお恵(乳母の名もお袋と同じだった)に建ててやる石塔はないと言って何時(いつ)も断ったそうだ。だから今でも乳母は石塔のない土饅頭の下で眠っている。
 俺の代になったから、こっそり建ててやろうと思うが、いつも自分一人を持てあましているくらいだから、そこまで手が出ない。
 乳母が逃げた後は、祖母の手一つで、曲がりなりにも育ってきた。俺は癇癪持ちだから、随分だだをこねて老婆を弱らせたというが、それは本当だろう。
 俺が泣くと、雨が降ろうが、風が吹こうが、山の麓から海岸まで背負って行った。祖母は目が悪いところへ持ってきて、あまり知恵のある質(たち)でなかったから、俺を背中へ縛りつけて海岸へ行って、海を見せさえすれば、得心して泣き止むものだと決めているらしかった。
 今でもあるが、その時波止場に大きな、まんまるい大砲の弾丸があった。
「ほら、大砲ん弾丸。な、ふてえ弾丸じゃろが。よう見なはれ。唐人船うちに使うたもんばい、ふてえ弾丸じゃろが」
 と言った。「ふてえ弾丸じゃろが」を何百遍聞いたかしれない。祖母のほうでも、俺を持てあましたろうが、俺のほうでも、大砲の弾丸(たま)には飽き飽きした。
 俺が三つの時、化け物のような奴が突然やって来た。
 俺は玄関で乳母と一緒に裸で鞘豆の皮を剥(む)いていた。するとこの化け物が俺の顔を見てかっと赤い舌を吐いて抱(だ)こうとするから、俺は鞘豆のざるを抱えたまま泣き出したら、台所から油虫(あぶらむし)と一緒に祖母が飛んで来て「まあまあ、おとっつあんたい。よう来なはった」と、あべこべに化け物にお辞儀をしたことを覚えている。これが俺の親爺だ。
 その時分八幡様の石段の下に、高山彦九郎の落とし胤(だね)が貧乏世帯を張っていた。この家の爺さんが、俺が日本を離れるとき「ジャパン国にキリシタンの御堂(みどう)を建立(こんりゆう)したなあ、この俺(わし)じゃと言うてくだはれ。オロシヤ人は喜ぶばい」と言った。誰に言(こと)づてるのか、それは本人も知らないらしかった。長崎に黒船が来た時、中町にキリシタンのお寺を建てようと言い出したのがこの爺さんで、俺の祖母と一緒に高台寺の踏み絵を恐れてしばらく姿をくらましていたんだそうだ。中町のお寺は今名物になっている。爺さんは漆師だった。
 俺を可愛がって、春徳寺下の幼稚園へ入る手続きをしてくれたのも、この高山の爺さんだ。
 幼稚園で俺の組に、色の黒いギスギスの子がおった。大きな紫メリンスの帯をしめて異彩を放っていた。その時分メリンスの帯なんぞ巻いて歩く子がなかったからだろう。先生はこの子を一番可愛がって小便までさせてやった。高木という長崎代官の子と俺が、竹竿で先生を叩いたとき、半日罰を食って廊下に立往生を命じられたら、メリンス帯が来て手を叩いてはやした。代官の子と俺が相談してメリンス帯を殴ると、わいわい泣きながら、下女を小使部屋から呼んで来た。
「若様、この子でございまするかのし」
 と下女が俺を指すと、メリンス帯がウンその子だ。早(はよ)う叩(ぶ)ってくれと言う。
「畜生。この異人めが、若様をようたたいた」と言いながら俺の頬っぺたをぐっとつねった。
 代官の子は震えていた。代官の子なんてものは弱いもんだ。だから親爺が代官をやめさせられて、目薬を売ったり神主なんぞになるんだと思った。メリンス帯は小松原英太郎の子だった。もう大分大きくなっているだろう。
 よその親爺とは少し違っているから訳を質問したら祖母が偉そうな顔をして、
「そら、あんた、おとっつあんは、露西亜のお方(かた)けん、ちった違うとったい」
 と教えてくれた。
「露西亜のお方(かた)けん」靴履きで畳を荒らしたり、石臼(うす)の上にお釈迦様のようにあぐらをかいたりするのだということも解った。しかしなぜ俺のそばへ始終いないのか解らない。
 隣の車屋の三公や煙草屋の留太郎が毎晩徳利に酒を買って門前を通る。
 俺は祖母にあれは誰が飲むのかと尋ねた。説明によると三公や留太郎の親爺が飲むんだそうだ。俺の親爺にも買って飲ませたいが、一体どこに逃げたんだと、折り返して聞いた。そしたら、
「はんかおに居らっしゃるけん。こっちで酒を買ってやらんでもよか」
 ということだった。はんかおは酒を飲まないんだ。三公の親爺も留太郎の親爺もはんかおに行かないから飲むんだ。しかし、町内で徳利を下げて酒を買いに行かない子は、幅が利かない規則になっていたから、俺の親爺も早くはんかおを免職して帰って来ればいい。日に二度でも三度でも徳利を振り回してやると残念でたまらなかった。俺は幼稚園へ入ったばっかりだったが、近所の子に負けるのは嫌いだ。鋳掛屋の子が一番俺を酷(いじ)めた。此奴(きやつ)が、
「おめいの親爺は酒が飲めねいのか」
 と言うから、
「俺の親爺は、はんかおだから飲まねいぞ」
 とやっつけた。そしたら此奴が、
「はんかおなんぞ、うっちゃっちまえ」
「うっちゃるもんか。はんかおは高価(たか)いぞ」
「いくらだい?」
 俺は生憎(あいにく)、祖母にはんかおの相場を聞いていなかったが、黙っていれば、はんかおを馬鹿にするから、大抵、行軍将棋くらいの値段だろうと考えて少し安いとは思ったが、
「五銭だい。ざまあ見ろ」
 と凹(へこ)ませて帰った。
 祖母に、はんかおは五銭でいくつくれるか様子を糺(ただ)すと、はんかおは一つたいと答えてくれた。一応もっともだ。はんかおは五銭で一つと決めて、それから、はんかおの事を誰が尋ねても、高いから一つだ。親爺は、はんかおを売ってしまったら俺の家へ戻って来るんだと威張ってやった。
 大きくなってから学校の先生に、はんかおは支那の都会だ。こう書きますと、漢口という字を書いて教えて貰った。
 もう一つ腑(ふ)に落ちない奴がいた。それは俺の家に、俺が生まれる前から寝ている女だ。この女を祖母がお母さんと呼べと命令したから、中途半端から具合(ぐあい)が悪いけれども、止むを得ずお袋にして、間もなく死んだ時も、お袋なみに、解りよく泣いてやったが、あとでこの女の正体が暴露して、本当はお袋の姉だという証拠があがったとき、いくら可愛がって貰ったって、もう少し泣き惜しみすればよかったと後悔した。ところで、家族は曽祖母と祖母と俺と三人になって、小さい西山という町の家へ引っ越した。
 親爺は不人情な奴で、とうとう二度と長崎へ来ないでしまった。俺は桜の馬場の小学校を三年生で打ち切って漢口ヘ親爺の顔を見に行った。親爺が露西亜領事館に澄ましているから、領事館で小使いさんをやっているかと思ったら、親爺が「領事はわしじゃ」と吐(ぬ)かしおった。
 ここのところで説明をする。俺の親爺はウィッテ伯爵と前後(あとさき)にペトログラード大学の法科を出た支那通だ。何、初めから、こんな臭い所に来る気じゃない。やっぱり国会議員で通す意気込みだったろうが、儲かると思って、政府にだまされて追いやられたんだろう。親爺は法学博士だ。俺は二十八で博士になった、お前も俺を見習え。そうするとアレキサンドル・ネヴスキー勲章は譲ってやると言った。その時は俺だって二十八で博士になる約束をしたように覚えている。
 親爺が明治三十四年に死んで、俺はとうとう孤児になってしまった。しかし、親が揃っていたって、満足な人間になるような手軽な子でないことを自覚していたから、親がなくても不自由だとも、肩身が狭いとも思わなかった。親爺が漢口で死んだ年、俺は遺骸をウラジオストクの露西亜人の墓地へ埋めに行った。その足で叔母ラリーザとそのままモスクワへ行った。親爺には三人の兄弟があった。二人は男で、一人は女だ。女が叔母ラリーザだ。男の方は二人共藪医者で、モスクワに一人、西伯利亜(シベリア)のイルクーツクに一人開業している。俺が叔母ラリーザとモスクワで落ち着いたところが、その三男の藪医者の家だった。ここにもまた伯母がいる。馬面(うまづら)の三十代のフィンランド女で、ターニャといった。
 俺は甥のくせにこの馬面の伯母をターニャ、ターニャと呼びつけにしていた。
 しみったれで、見栄坊で、足を洗わぬ前がマルイ劇場付の女優だったせいか、馬鹿にひがみ根性の、嫉妬心の強い女だ。生意気に、女権拡張論者のソフィ・コワレヴスカヤなどと往復している。バーチナがどうの、ベロヴースカがどうの、イアキモヴァがどうのと変な本を買い込んできて伯父に喧嘩を吹っかけていた。
 俺はこのターニャが大嫌いだ。お前の母さんは日本人だからキヨスキーは露西亜人じゃないと言う。キヨスキーというのは俺のことだ。俺をターニャに預けて置いて、叔母ラリーザは、巴里(パリ)のローマ教女学校へ教師に迎えられて行った。
 その時分俺は、ニコラス二世の乗馬軍服が流行っていたので、学校通いの制服にねだって拵えて貰い、小学校へ伯母の家から出掛けたもんだ。
 読本を開いて「犬が吠える(ザバーカ・ラエート)」「狼がうなる(ヴオルグ・ヴオエート)」「鷲が叫びます(オリヨール・クリジート)」なんて、露西亜だけに「ハナ・ハト・タコ・マリ」と穏かにいかないから面白いと思った。荒っぽくて、何でもガサガサして珍しかった。
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