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2011年9月

2011年9月15日 (木)

『週刊岡庭昇29』 ~ 一億総懺悔体制が確認された

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週刊岡庭昇 29 ~ 一億総懺悔体制が確認された
(2011.7.2記) 

 2011年7月1日のNHKのニュースウォッチ9は、いざというときは体制維持のため、国民の感性操作に邁進する同局の本質を改めて確認させた。
 一般的に言ってNHKの内容が、民放と比べけしからんなどとはまったく思わない。それどころか、ここ十五年ほどの民放の呆れるはどの退廃は、かつてTBSのドキュメンタリディレクターであったわたしなど、そういう事実自体を隠したいほどだ。相対的に言ってこの民放の堕落と比べれば、もはや聴率料拒否の理論など成り立たないので、20年位前からちゃんと支払っているほどだ。
 報道以外では『ダーウィンが来た!』や『世界ふれあい街歩き』など立派な番組があるし、最近の東北大震災を題材にしたドキュメンタリにも良いものがあった。そのことは十分認めたうえで、ああ忘れていたが、NHKは第二次大戦以来、官僚独裁がいざというとき宣伝するメディアなんだな、と改めて確認させられたのである。
 戦時下の大本営発表は、事実と違うことをたれ流した点で批判される。それはまったくそうなのだが、それだけというところに、物を考えないこの国の怖さがある。問題はその点なので、考えること自体に対してわれわれが無気力に陥ることなのだ。
 事実と違う大本営発表は、そのことで、人間にはそれぞれの立場があって、その対立や融合の上に選ばれた結果として現実がある、という原則を無化する。これが大事なのだ。まるで季節のように検討を経ない現実が自明にやって来て、「選ぶ」のではなく「対応」だけが、行動として「自然」だと強制される。それが、この国である。抜き難いこの国の倒錯であり、この倒錯した本質に気付きようもない諸外国は、信じられないくらい紳士的な人々だと驚嘆する。
 いよいよ夏。われわれは節電に協力しなかればならんのだそうだ。でも、なぜ? いやなぜという問いすら、お目にかからぬのはなぜ?
 ごく常識的な問いを、二度、三度繰り返して置こう。①は、東京電力とわれわれ国民の関係は、説明するまでもなく加害者と被害者である。加害者が威張って被害者に電力供給に協力しろと命令している。なんでこんな横暴が、まかり通るのか? 常識的なわたしには理解出来ない。
 ②は故・高木仁三郎もつとに指摘しいていたことだが、原発がなければわれわれは停電生活を余儀なくされるという電力企業の脅しは、誰が、いつ、どういうデータに基いて客観化したと言うのか。高木は既存の火力発電を一部止めて、原発が必要な状況を電力自らが虚構していると明確に述べたが、いつ電力企業は客観的に高木を論破したのか。原発再開に当たってこの論議を棚上げするなんて、許されることか。
 2011年7月1日のニュースウォッチ9は、別に手間暇掛けた陰謀を仕込んだわけではない。さりげなく、夏が来たぞ、電力供給が大変だから、みんな協力しようと言っただけである。そして「だからこそ」それは、最高度の言論操作であった。
 わたしが言うところの、真の意味での大本営発表を実現した。自ら「考えること」を、現象に対置するのではなく、季節に対応するように「対応」することで、事態は糾弾されることなくやり過ごされ、悪はまんまと延命したのだ。
 かくて一時少しは揺らいだかに見えたメイファーズ日本は、また「動かぬ欺瞞の自然」にもどった。戦争に負けても「敗戦」とは言わず「終戦」とする政治が、結局は戦後史を征したのと同じである。雨が降り止んだのと同じように1945年8月15日に戦争は止んだのであり、誰も何処にも責任など取る必要はなかった。ただ国内外の運の悪い人が、ひどい目にあっただけだった。そう言えば谷川雁の詩に、「ギナノコルガフノヨカト(残った奴が運の良い奴)」というのがあったな。
 さあ一億総懺悔して、つまり誰も悪くはなかったと確認して、もとのメイファーズに戻ろうと、「自然」の家元であるNHKは宣告した。震災も原発のいかがわしさも、「節電」というコピーのもと初夏の風物詩と定められたようだ。めでたきかな無思想、無主体、無気力の集大成である「自然」! ああ恐ろしきかな、メフィストフェレスより暗黒のわが「自然」!
 自らの世界観に立脚した、自らの判断に基づく、自ら共働による社会など想像もつかないメイファーズ日本人は、おとなしい仮面の背後で、本当はエゴイズムの極なのかも知れない。かくて誰も責任を取らない、一億総懺悔体制はまたもや不滅である。震災以来1パーセントぐらいは、この国の人々も「考える」かと期待して来たが、またもやこのビッコの老人の挫折は必然だった。もう電力についても、核についても、語りたくはない。あんたの勝ちだよ。
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Gwngos

かくもさまざまな言論操作

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2011年9月13日 (火)

『週刊岡庭昇』より ~ 「風評被害という呪文」をご紹介いたします

お陰さまで、弊社が刊行した『東京電力福島第一原発とマスメディア』、『戦後日本の思想』、『かくもさまざまな言論操作』はいずれも堅調な売れ行きを示しています。近々、第四弾も刊行いたしますが、これもまた大変に興味深い書籍ですので、是非、ご期待ください!
さて、本日は、『かくもさまざまな言論操作』の著書である岡庭昇さんが、個人的にお知り合いの方に出している(限定6部!)『週刊岡庭昇』の本年7月18日号を転載いたします。題して「風評被害という呪文」です。
なお、当ページでは、これからも『週刊岡庭昇』の一部を転載してまいりますので、どうぞご期待ください。

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週刊岡庭昇 32 ~ 風評被害という呪文
(2011.7.18記)

 風評被害という言葉について考える。
 結論をはじめに言っておくが、風評被害とは体制が(つまり官僚独裁が)、隠し通して来た情報が明らかになろうとするとき、それを是非もなく(つまり根拠を示さず)打ち消す暴力的なムード言語である(というように、かねてわたしの邪推は定まっている)。
 わたしは、1980年代を中心に、ハマチ産業等の薬漬け養殖、無茶な減反が生んだ米不足、つまり年間に国民が消費する標準米が決定的に足りなくなった事実と官僚による隠蔽、隠蔽の延長上に、危険を含む飼料用米を学校給食に送り込むなどの国家犯罪の疑いや、学校建築にアスベストが多く使われている事実と、その対策はなし崩しになったのではないかという疑い、さらに原発にマルタン(炭鉱離職者)を送り込むシステムが、労働手配師と電力が組む陰謀としてあったと推断せざるを得ない事実等、制度としての情報とか報道とは、すぐれて「情報隠し」のためにあるのではないかと思いつつ、その証拠のようなTVドキュメントを世間に届けた。
 老人の手柄話をやりたいのではない。25年からの日月が経って、いったい何が改善したのかと溜め息を吐いている。この嘆きは、いま挙げた例からも、一見して明らかであろう。お前は結局、いまでも通用すると威張ってる? それは手柄ではなく、紛れもなく悲嘆なのだ。わたしのドキュメントは、ただわたしを虚無主義者にしてくれただけだった。おかげでわたしは、高級な虚無哲学者として、銭ゲバ日本の現実に興味を持たなくなった。
 ただ恐らくは官僚独裁からのカウンターパンチとして、90年代に「風評被害」という言葉が作られたことは鮮やかに覚えている。「TVと気分を重ねた」ムード言語に支配される日本では、これで独裁は完璧に勝利を納めるだろうと思ったのである。「意外な事実」がもし暴露されても、「風評被害」という言葉の名人芸によって、是非もなく粉砕するだろう、とわたしはつくづく感心して、さらに現実から虚無の方向へ去ったのである。
 東北関東大震災は、久し振りにこの「言葉の政治」を思いださせてくれた。まず「風評被害」という言葉は使わなかったが、原発爆発に対する、「諸外国の過剰反応」という言葉がいっせいに日本の隅々まで流布された。しかし諸外国といえども、特派員は多くの国が日本に置いているのである。奇妙な言い方をするものだと思っていたが、隠し切れずにいまやあきらかになったさまざまな、かつ一部の事実だけでも明らかなように、事実を伝えたのは諸外国のマスコミだけだった。
 この虚偽に乗っかって、「風評被害」という悪魔のキーワードが大活躍する。原発事故の現場の野菜や魚に放射能被害が出ても、安全なものもあるのだから、ひっくるめて言うのは風評被害であるというように。しかしわれわれはクイズをやっているのではない。正解が決まっている環境問題などというものはない。危険な「可能性」が現実に存在するとき、「風評被害」などという批判は原理的に存在しないのである。生命・身体にとって、悪魔はこの「悪しき可能性」なのだから。
 現に汚染の確認は、いまだ後から後から続く。「風評被害」などという魔法の呪いでは、現実は救済されないのである。農民や漁民のふってわいた不幸を断ち切ろうとする努力は心情として当然のことだ。しかし農民や漁民はただ被害者なのであり、事態に責任を取ろうなどと考えるべきではない。一億総懺悔路線を刷り込んで、独裁はまたごまかそうとしているが、これは紛れもなく東電の犯罪であり、徹底して加害者東電から損害を支払わせ、全部資産を吐き出させた後は(あくまでも後だよ)国家に引き継ぐべきである。「悪しき可能性」という事実を懸念する者に、「風評被害」という汚名を投げ付け、ちょとやそっとで回復しない土地での農漁業の回復を焦るなどは、真犯人をうやむやにすることにもなりかねない。
 風評被害という言い方がマスコミに登場したら、まず警戒することだ。独裁に都合の悪いどんな事実が、今回は隠されているのだろうかと。
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Gwngos

かくもさまざまな言論操作

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2011年9月 8日 (木)

『かくもさまざまな言論操作』を発売しました!

今週、2冊目の新刊が発売となりました。

Gwngos

かくもさまざまな言論操作

本書の著者、岡庭昇氏はかつて養殖ハマチの危険性などをテレビでスクープした元TBSのドキュメントディレクター(その時の本は『飽食の予言』に詳しい)。
早くから今日問題となっている行政やマスメディアの歪みをずっと以前から指摘されていた方です。
したがって、本書も1998年に刊行された本ながら、まったく古さを感じさせません。
たとえば原発について。

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 事態が教えるものは、あまりにもはっきりしている。この程度の基本的、初歩的な事故を起こしうる設備がそもそも原子力発電所なのだ、ということだ。これにつけ加える、どんな理屈も不要だろう。
 この場合も、あたりまえのことをあたりまえといい切ること、すなわち常識こそが大事なのではないだろうか。危ないものを危ないと感じて、危ないものはやめようと提案し、危ないものに執着する論理は成り立たないと、ごくごくまっとうに考える市民の発想以外に、本来「原発論議」は存在しないなずなのだ。
 なぜそれなのに、あまりにも事態は「ほんらい」ではなく、「あたりまえ」ではないものがまことしやかに存在してしまうのか。むしろ「あたりまえ」を、そのにぎやかさで圧倒してしまうのか。むろん、それこそが情報帝国主義の、情報帝国主義である証拠なのだ、といってしまえばそれまでなのだが。
 原発は、いわば「国是」である。「国策」なのである。そして、それが国策であるかぎり、それについての情報はまったく市民に知らされず、それに対するあらゆる疑念自体が認められない。それは、まさに国策であるゆえに存在理由を持つのであり、そこに懐疑も、検証もあってはならないのである。それこそが一党独裁の強いる現実にほかならない。国策であるならなおのこと、十分な検証が必要なはずなのだが、むろんそういう「まとも」は、そこでは通用しないのである。
 危ないものを危ないと感じて、危ないものをやめようと提案して、危ないものに執着する論理はあり得ないとするところの、「まっとうな」市民感覚は、原発をめぐって存在を許されなかった。情報帝国主義は、さまざまな手だてをもって、それを押さえ込んできたのである。
 そのひとつに、原発を危険だなどというのは、科学的な無知のしからしむるものにすぎない、という「理屈」がある。これはけっこう有効な詭弁だった。この「理屈」は、「危険性などはない」という結論を、「無知」呼ばわりと引き換えにきめつけるけれども、その「無知」が納得するようには説明してくれるわけではなく、ただ懐疑は無知の結果であると、決めつけるだけなのだから。
 たとえわれわれ市民が、科学的な専門性を持たないのは事実だとしても、そしてそのかぎりでは「無知」であるのが事実であるにしても、それを「無知」呼ばわりすることで懐疑を嘲笑し、否定した論議は、ついに懐疑のなかにある無知を、懐疑を超えたところの「納得して安心した知的認識」に転じさせることができなかった。そんなにも、説得力のない専門性などというものがあるだろうか。
 はっきりいって、このきめつけにあったのは、論理でも専門性でもなく、ただ「無知」という高飛車な罵倒で、懐疑自体を封じ込める「政治」なのであり、そうである限り「無知」が正当に感じている懐疑や危惧に対して、「無知」よりはるかに非論理的であることははっきりしているのだ。
 さて、だからこそわたしは、さきの指摘にこそここでもどらなければならない。すなわち、この程度の基本的、初歩的な事故の可能性を持つのが、原子力発電所というものなのである、という指摘に。
 科学的な知識が、それだけで認識の優越性を保証するという考え方自体が意味を持たないが、それ以上にここでの皮肉な結論は判然としている。懐疑や危惧を無知呼ばわりした、科学的に優越している立場が、少なくとも専門家としては、この程度に基本的で、初歩的な事故を起こしてしまったのだ。つまりは、非専門家の「無知」が感じた懐疑や危惧こそが、じつは正当に事態を認識していたわけなのだから。
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いかがでしょうか。実は上記の「事態」とは1997年3月11日(!)に動燃で起きた再処理工場爆発事故を指しています(私も今、改めてこの事故の日付を見てビックリしました)。
しかし、これはまったくもって2011年3月11日以降の東京電力福島第一原発事故にそのままあてはまります。
つまり、当時も今も、何も変わっておらず、岡庭氏が提出した問題は何も解決されないまま今日に至っていたというわけです。

さて、今回はすでにお伝えしましたように、「究極のニヒリズムを越えて――原発社会との対峙」という新たな書き下ろし原稿を加えての発売となります。
少しでも東京福島第一原発事故に関心のある方は、是非ともお読みいただいて、霞が関の官僚、財界、マスメディアによる「情報操作」に対する感性を磨いていただければと思います。

なお、これもすでにお伝えしましたように、岡庭氏が個人的に発行している「週刊岡庭昇」の一部原稿を、本書の発売記念として、今後、掲載していきますので、お楽しみにしていただければと思います。

なお、引き続き『戦後日本の思想』、『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』も好評、発売中です(電子書籍に絶版はありません)。

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戦後日本の思想

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『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』

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2011年9月 5日 (月)

本日、『戦後日本の思想』発売しました!

先日来、ご案内しておりました弊社電子書籍の第二弾、『戦後日本の思想』が本日18時よりボイジャーストアにて発売となりました。
本書はタイトル通り、戦後日本の思想の古典的名著で、以前のエントリーにも記しましたとおり、1959年に中央公論社から刊行されて以降、勁草書房、講談社学術文庫、そして岩波書店で二度にわたって書籍化されております。
今回は刊行記念ということで、中央公論社版のカバー右ソデに入っていた桑原武夫氏の評をご紹介いたします。

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 名著『現代日本の思想』において、思想を紙の上に定着されたものとしてでなく、社会に生きて人々を動かすものとして捉える新技術をあみ出した久野、鶴見両氏は、ここに新鋭藤田氏を加えて、私たちが今そこにすむ「戦後日本の思想」の検討に見事な成果をあげた。
 敗戦によって様相を一変した思想界に、たんに進歩、保守の対立を見るのみでなくそこに文学的、社会科学的、土着的の三発想法をからませ、さらに、日本人がいかに戦争体験をうけとめたかをさぐる。この六本の柱の検討にあたっては、まず柱のさしこまれている土質にふかい関心を示しつつ柱の支える家屋構造を明らかにする綿密な「報告」を行ない、さらに三人の自由討議によって、その彫りをふかめてゆく方法をとっている。定言的な結論を期待する怠惰な読者は、そこにあまりに多くの、時として相反しさえする観点を見出して、戸まどい的不満をもつかも知れぬ。しかし、思想とは自ら苦労して身につけるべきものと知る誠実な読者は、楽しい自由選択の知的作業をなしつつ、読みおわるとき、戦後思想の潮流の大別をいつしかわがものとしたことに気づくであろう。知性にとって最上のおくりものとして推せんする。
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いま日本は第二次世界大戦後最大の、というよりも歴史上、始まって以来の最大の国難に直面しています。
そうした中で、もちろんいま最優先に求められているのは福島第一原発が撒き散らかす放射能災害の収束、そして東日本大震災の爪あとからいかにして復興への道筋をつけるかということであることは言うまでもありません。
しかし一方で、ただ闇雲に「ヒト、モノ、カネ」を注ぎ込むだけでは、おそらく事態はいい方向へは向かわないでしょう。
私たちはポスト3・11の時代をいかに生きてゆかなくてはならないのでしょうか?
それを考えるためには、体だけでなく頭(思想)のトレーニングもまた必要なのだと思います。
正直言いまして、この本はなかなかに難しくとっつきやすいものではありません。
しかし、この本を読み終えたみなさんは、きっと桑原武夫氏の評に納得することでしょう。
自らの脳みそに負荷をかけることで、おそらくはとてつもなく厳しい時代になるであろう、3・11後の世界を生き抜く思想を身につける一助となればと思ったのが、本書の電子書籍化を思い立った理由です。

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戦後日本の思想

株式会社志木電子書籍
代表取締役 京谷六二

※なお『東京電力福島第一原発とマスメディア』も引き続き好評発売中です。
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『東京電力福島第一原発事故とマスメディア』

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